一人ひとりが魔法使いになるように──その人の持っている力を引きだす、木彫りのものづくり│うまのはなむけ「ニューオールドカリモク」

STORY | 2025/03/28

目を大きく開けて、息をひとつ、深く吸いたくなるようなもの。それがどのように生まれたのかわからないという神秘と、これが眼前にあることへの驚きと喜び。そんな作品を前にしたとき、「魔法みたい」という表現が口をついてでてくることがある。科学的な分析で世界を“理解”することが主流になっている現代においても、「魔法みたい」とため息をつくほどのときめきが人の胸のなかから消えることがないのは、どうしてだろう。

その晩からは、雪が降るという予報がでていた。岡山県吉備中央町にある“うまのはなむけ”こと、木彫作家・神崎由梨さんのアトリエに向かう。魔法使いのような人がつくる、魔法のような木彫りに、会いに行く。

「わ〜、こんにちは」

由梨さんが、愛犬のクルフィーとともに迎えてくれる。ミルクパン、あるいは牛乳たっぷりのカフェオレ色の、身のぎゅっと引き締まったかわいい犬。

うまのはなむけのアトリエは、由梨さんと、木工家具作家でもある夫の植月大輔さんが暮らす自宅の敷地内にある。庭には、収穫の終わったキウイの枝が垂れ下がっていて、ゆきさんが「枝も少しふわふわしてますよね。キウイっぽい」と言う。

「去年は小さいキウイがたくさん獲れたんです。今年は、そんなにたくさんじゃなくていいからもう少し大きいものを……ってお祈りして。そうしたらちょうどよく実りました」

ふふっと笑いながら教えてくれる由梨さん。葉っぱが落ちた、彩度の低い冬の静かな景色のなかで、由梨さんが纏っている大輪の薔薇が編み込まれたセーターがあたりを照らす。おばさまから譲り受けたのだそう。由梨さんは自然の一員、という言葉が頭のなかで鈴のように鳴る。

「カリモク(家具)さんの作品、見ますか?」

大輔さんと一緒に改装したのだという、白いアトリエに案内してもらう。窓が大きくとられているから、薄曇りでも冬の光がなめらかに差し込んで、きれい。彫られる前の木も、彫られた生き物も、こぼれた木屑も気持ち良さそうだ。

「わ〜、できてる……!」

100本の花が咲いたような声で、ゆきさんが声をあげた。ライティングビューローの2枚の扉には、2匹のタツノオトシゴが守り神みたいにおごそかに佇んでいる。取手には、今にも泳ぎだしそうなぷっくりしたハコフグなどのお魚たち。アームチェアには、背もたれのところにちょこんと乗る予定だという、リスが。電話飾り台の側面には、わたしはここにいる、と今にも歌いだしそうなマーメイドが手を広げていて。さまざまな姿かたちで生きているものたちが、木から彫りだされ、命を吹き込まれていた。

「普段、ひとりでつくることがほとんどなので、わたしにとってカリモク家具さんとの仕事は新しい経験でした。今回は古い家具のリメイクだから、分解できないパーツもあって、膝に抱えながら彫ったものもあって。そうしたら、これまではウレタン塗装っていいと思っていなかったのですが……木がセーターに引っかからないし、角もしっかり落とされていて、驚きました。家具としての細やかな気配りがすごいなって思ったんです」

今回のカリモク家具とのコラボレーションを立ち上げるにあたり、うまのはなむけのものづくりの存在が大きかったとゆきさんは話す。

「YUKI FUJISAWAとして、カリモク家具さんとなにかつくろうという話になったときに、自分ひとりで新しいものをつくることにあまりピンとこなかったんです。だから好きな人たちの、見たことのない作品を見たいなと思ったときに、すぐにうまさんのことが浮かびました。カリモク家具さんのものづくりは、手のぬくもりもあるけれどインダストリアルな側面もきっちりある。多くの人に届いて、長く使ってもらえるものですよね。一方でうまさんは、この世界にひとつしかない、唯一無二のものをつくる魔法使いだって本当にいつも思っています。このふたつが合わさってしまったらどうなってしまうの……? って」

今晩からは雪だ、という予報を肌身に感じるような冷気が、生まれたての木彫りの生き物たちを順番に撫でていった。それを合図に、あたたかな母屋の食堂に移動し、話の続きをすることに。

「ごはん食べてきましたか? 二人の到着が少し遅くなると聞いて、これなら間に合うかなと思って……」

由梨さんが差しだしてくれたのは、焼きたてのナッツとカルダモンのクッキー。アンティークの譜面台には、お菓子研究家・長田佳子さんのレシピ本が立てかけられている。このレシピは、30分もあれば完成するところがお気に入りなのだって。さくさくでジューシーで、じゅわっと熱い甘いあぶらの匂いまでおいしい。

こんなふうに由梨さんは、自分にできることならばと、なんでもつくろうとしてみる人だ。木彫りはもちろん、必要だと思えば、展示に使う布を染め、星のような刺繍をほどこす。ほわほわの猫柳の枝で籠を編み、YouTubeで調べてコーヒーの焙煎機を自作する。着物もリメイクしたことがある。調べてつくれるものであれば、とりあえず手を動かしてつくってみようとする。そんな由梨さんのものづくりのはじまりを辿ると、そこには、絵画の存在があった。

「5歳の頃から、絵画教室に通っていました。特に、リアリティを追求することに中学生ぐらいではまって。20歳頃まではかなりリアリティのタッチを追求していました。大学の教育学部でも絵を続けて、3年生のときに専攻が選べたので彫刻をはじめたんです。それから、金沢の美大の大学院に進学しました。でも、絵を追求し続けるうちに体調を崩してしまって。当時、絵がしんどくなってしまったこともあるのですが、自分には彫刻が合っているなと思ったんです。周りにあまりいろいろと言う人がいなかったので、自由に、好きにやれた。それが良かったんだと思います。自分で好きにやるのが好きだから」

好きなようにつくりたいという思いが強くあるゆえだろう。つくることをさまたげる要因にも自覚的だった。「型紙や編み図など、決まりがあるものはあんまり……」。人の気配を感じながら創造するのは、子どもの頃から苦手。展示をすれば作品は完売するけれど、それでも誰かに評価されたりすることには自信がない。由梨さんのものづくりの羽を広げる鍵は、“好きなように、自由にできる”ということ。

「カリモク家具さんのために彫ったお魚たちは、自分のなかで海ブームがきてるから、お魚をもっと彫りたいなと思って。つくりたいものがいつもたくさんあるんです。彫りながら、気分でどんどんかたちも変わっていきますし。疲れたら休むけど……。元気があれば、彫りたくないという気持ちになることはないかなあ」

「つくりたいものが溢れてるタイプの人だ。 わたしは外から働きかけられないと永遠にねこさんとけむたんと寝てるばっかり……」

「そうは見えないですけどね。ゆきさんも働き者っぽい」

二人が楽しそうに話すのを眺めながら、ふと、「自由に」「好きにできる」というのはそもそもどういうことだろう、と考えてみる。誰かやなにかを脅かしてまで、「自分ばかりが自由に好きにする」ということではもちろんない。そのうえで、「自由にやりたい」と心から願う言葉が生まれる背景に思いを馳せれば、「自由に、好きにできない」状況が、日々のなかには多くあるということでもある。

さまざまな習慣、社会通念、「こういうものだから」や「こうあるべきだよ」というじわりじわりとした圧力が、意識的であれ、無意識的であれ、世の中には満ちている。けれど、一人ひとりや、一匹一匹をぐっと寄ってみて、この選択が本当にいちばんいいのだろうか? そんなふうにまっさらな目で見つめてみれば、個々が本来蓄えているはずの万華鏡のようなのびやかな魅力が、実はきゅっと縮こまってしまっていたということも、きっと少なくないだろう。

立場や事情の違いを抱える他者同士が共に生きるなかでは、誰もが自分の好きにできることばかりではないかもしれない。それでも、気づけばがんじがらめになっていた思い込みをいっとき横に置いて、自分の心の声に耳を済ませ、自分以外の生き物たちの声にも耳を澄ませることから練習してみる。そうすれば少しずつ、自分が望む自由のしっぽが見えてくるかもしれない。

そんなことを考えながら、由梨さんの暮らす家をぐるりと見渡す。ストーブからしゅんしゅんしゅんとのぼる乳白色の湯気が、踊るように揺れている。ぼんやり眺めていると、蜃気楼か、夢のなかに吸い込まれていきそうだ。普段、湯気を気に留めることなんてないな、と思う。ここにいると、自分の日常では見落としたり、見過ごしたりしてしまっているものが、徐々に見えてくるような感覚になる。

「さっきアトリエで、ブロック型の木材に、馬の下絵が描かれているのを見て。あの状態から、どうやったらうまさんの作品になるんだろう? うまさんには、常人には見えないものが見えているって感じます。うまさんのつくるものは、すごく昔につくられたもののような気もするし、現代の人が祈りを込めてつくったようにも見える。ヨーロッパの雰囲気もあると思いきや、どこの国や土地をイメージしているものなのかはっきりと示されているわけでもなくて。でも、うまさんが暮らしている場所や、アトリエにお邪魔すると、あ、この空気だからこれが生まれるんだなって」

「やっぱりわたしは、リアリティが好きなんです。だから、受け取ってくれる人がファンタジーを感じてくれるというのが、どうしてだろう? って。自分では少し不思議に思うところもあって……」

首をかしげながら、由梨さんが言う。母屋の食卓にも、由梨さんが彫った動物たちや、妖精たちがいる。異なる時代や場所が同居する、魔法のような空間。けれどそれは、由梨さんにとってはあくまでも、子どもの頃から続けてきた絵画と同じように、世界のリアリティを追求したものづくりの結果なのである。

ふと、うまのはなむけの木彫りが日々生まれている、アトリエの小屋の大きな窓を思いだす。あれは、由梨さんが世界を眺める額縁なのかもしれない、と思う。季節によって刻々と変わる自然の風景。植物が放つ匂い。人間の足音で逃げまどう必要のない、動物たちがたてる鮮やかな生活音。自分の暮らしにとっては遠くに感じているものが、由梨さんにとっては、触れられるほどすぐ目の前に、本当にあるということ。

「(カリモク家具のために彫った)フグちゃんも、知れば知るほど、子育てをすごく頑張っていたりとか。交尾がすごく素敵だったりとか。いいところばかりではなく、野生の動物は動物なりに大変だろうなとも思うし、なるべく先入観なく、生き物たちを見たまま、ただ感じるようにしています。生き物たちを見て、調べていくと、なんてかわいいんだろうと思って彫りたくなります。いろんな生き物たちがいる世界で、人間ばかりが中心というのはあんまり良くないんじゃないかなとは思っていて……。もしかしたら、人間と、それ以外の生き物たちとの距離がもっと近づいてほしくて、木彫りでつくっているところはあるかもしれません」

今年の1月に発生した、ロサンゼルスの山火事の報道が記憶に新しい。気候変動や海洋プラスチックなど、人間たちが引き起こしてきたさまざまな環境問題は、あらゆるかたちで連鎖し、自分たち人間だけではなく、動物や植物、地球上の生態系に深刻な影響をもたらす。それがまるで自分には関係のないことのように、“平穏”に暮らしていけてしまうのは、今の構造においては──もちろん人によって認識や関わり方の違いはあるけれど──都市部で暮らす人間であることが多いのだとも思う。ロサンゼルスの山火事では、火傷だらけになった無数の鳥や動物たちが保護される様子が報告された。由梨さんは、罪のない動植物たちに対して、人間がしていることを思うと、これでいいのだろうかと希望を失いそうになることもあると言う。けれど同時に、だからこそ自分はつくりたいという気持ちが湧いてくるのだとも。

「木でつくるっていうこと自体に、すごく楽しい夢があると思っているんです。いくらでも、自分が見たい、この世界にないものをつくれる可能性がある。希望があるものをひとつつくれたら、それがある世界になるから」

「うまさんのこうだったらいいな、という世界が作品には表現されていますよね。現代に生きるわたしたちにはそれが普段の生活とは遠いものに感じられるから、ファンタジーだと思うのかもしれない。今日見せてもらった作品みたいに、野生の動物たちが光の下でのびのびとしている姿は、東京で暮らしていたら、人生で一度だって見ることはできないと思うから」

ゆきさんの言葉を聞いて、由梨さんがなるほど、と手をぽんっと打って、目がつやつやのどんぐりみたいに光った。野生の動物たちが全身をつかって駆けまわり、ぐっすり眠り、愛し合う姿も、月や星が変わらず輝いていることも、花々や木々が咲いては散ってを繰り返すことも、今はまだちゃんとこの世界に確かに存在しているもの。わたしたちはかれらと共に生きている。人間も、動物も、植物も、ひとしく世界の片隅のひとつである。社会が、わたしが、忘れかけている、人間以外の無数の片隅のそれぞれの光をも思いださせてくれるのが、うまのはなむけの木彫りだ。遠くの景色が、近くに見える。蜃気楼のように。それは魔法に似ている。

人類学者として神話研究をおこない、西洋中心主義に対して「未開」とされていた社会のなかに秩序と構造を見出した、レヴィ・ストロースの代表作には、こんな言葉がある。

東カナダの呪術医は、医薬として用いる草木の根や葉や皮を採取するとき、必ずその根元に少量の煙草を供え、植物の魂を味方にする。それは、植物の「体」だけで魂の協力がなければ、なんら効力がないと信じているからである。

クロード・レヴィ=ストロース『野生の思考』より(訳:大橋保夫、みすず書房、1976年)

人間が動植物を利用し、コントロールするのではなく、相手の魂に協力してもらってこそ、生まれる力があるということ。そこには、生きるやり方が違ったとしても、上下の構造をつくらず対等であろうとする意志がある。

魔法使いとして光のような力を発揮できる人は、向き合う相手が人間であれ、それ以外の生き物であれ、頭でっかちな思い込みという不自由な枷をはずしてまなざせる人なのかもしれない。自分がなにかを成し遂げるための“材料”として利用するために、相手を都合良く無力化しない。生きものたちがありのままで過ごせるよう、時間をかけて、ただ静かに見て、感じる。

それは簡単ではない。多かれ少なかれ自分も、流されてしまうような速度のなかで、固定観念や思い込みの蔓にからまりながら生きているから。だからこそ、由梨さんの手から生まれる作品の世界に息づく、木彫りの生き物たちのゆうゆうとしたいのちの愛おしさに胸が打たれる。この景色の静けさをそっと抱きしめながら、守れる自分でありたいと思う。そんなことを感じる時間そのものを通じて、こわばっていたからだの力が抜け、身も心もだんだん癒えていく。

いろいろな生きものたちが、なるべく好きなように、自由に羽を広げたり休めたりしながら過ごせるように。そんな世界をつくれるよう、木彫りの作品に祈りを込めて。由梨さんはそして、自分がつくるだけではなく、それぞれの持ち場でおのおのが好きな世界を、誰しもがつくれるようにと願っている。

「うまのはなむけの木彫りを手にした人が、魔法使いになったらいいなって思うんです。わたしは、クッキーの型や、裁縫で使う針山をよくつくるんですね。お菓子をつくる人や、裁縫が好きな人が、わたしがつくったものを使って、より楽しくなって、その人がもっている力が引きだされたらいいなって。そしたら、クッキーや服をつくってもらった人たちも喜びますよね」

「今回、うまさんがタツノオトシゴたちを彫ってくれているカリモク家具のライティングビューローと、海の電話台は、音楽家の青葉市子さんのオルゴールとのコラボレーションになるんです。市子ちゃんも音楽の魔法使いですよね。魔法使い同士のコラボだから、このライティングビューローを手にした人は、どんな手紙が書けちゃうんだろう……!」

うっとりしながら、ゆきさんは力を込めて言った。

うまのはなむけは、名の由来に「旅立つ人の前途を祝して、贈り物をしたり、宴をしたりして送りだす」という意味をもつ。この日、話を聞きながら、由梨さんが差しだす贈り物は、やっぱり「魔法」なのだと思った。けれどそれは、一方的にもたらされるものではない。「あなたも魔法使いだよ」と、こちらの手元を微かに照らしてくれるような種類の魔法だ。一人ひとり内に力があることを信じているから、それぞれの持ち場で魔法が使える人をこの世界に増やそうとする。木彫りの魔法使いはそうやって、希望をひとつずつ、創造する。

「もうこんな時間だ。あっという間ですね……。今度は、お泊まりでゆっくり。きっと」

未来がほんのり灯るような淡い約束をして、わたしたちは吉備の町を後にする。ゆきさんが車を走らせ、見送ってくれる由梨さんの姿がどんどん遠のき、それでも大輪の薔薇のセーターはずっと鮮やかだ。やがて冬の季節を生き抜く枯野の風景の一部になって、溶け込んでいく。見えないはずの、動物や植物たちの、平穏に満ちた祝祭的な命のさざめきが聞こえてくる。ここで生き、つくる人から魔法のバトンが手渡された、2025年の冬の日だった。


Words:野村由芽

Photo:濱田英明(ポラロイド以外)

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