グレープアゲート再登場✧アトリエショップでぶどう狩り✧11月16日-17日開催

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「つくる」力を、自分の内側にたずさえて。木彫作家“うまのはなむけ”のアトリエへ(後編)

故事 | 2024/02/16

いよいよ、由梨さんが木を彫るところを見せてもらう。作品によっては、新しく買った木を使うこともあるけれど、多くの作品は、家の敷地内に育った木や、近所の方が剪定してお裾分けしてくれた木などを使うのだそう。息をのんで、彫るその背中を見つめる。

窓の外には木がはえていて、一片の木片から、生活の道具も、生きもののかたちもつくりだせることの迫力に、めまいに近い衝撃を覚えたのは、おそらくわたしだけではないと思う。普段、見ている、わたしも木を。それでも、この木を見て、手の内からなにかがつくれると思ったことはなかったな、ということに、なにか大きな心のふるえを受け取りながら。

「由梨さんには、きっと見えてるんでしょうね。なんでもつくれるひと。魔法使いみたい」

とゆきさんが言う。

わたしもそう思う。そしてその魔法は、ひとりで生みだすのではなく、脈々と伝わってきた世界各地の紋様や意匠、自然の移り変わり、動物のやわらかな毛並み、そういったものを静かに観察し、自分がいまから生み出すもののことを真剣に考え、世界に問いかけるようにしてつくりだそうとしているものであるように見えた。つくることの責任と、喜び。このひとにしか、いまこの時代にこの場所でしかつくれない、幻のように揺らぎのある、たったひとつのたしかな手の仕事。

YUKI FUJISAWAのアランセーターのためにつくったボタンと木型がずらりと並ぶ。魚、羊、馬、鳥、蜂、花……この場所を訪れてあらためて、これらの模様はたんなる表面的なものではなく、この空間や時間を記憶したタイムカプセルのようなボタンなのだなと思い至った。 


「木型を陶器のボタンに使うアイデアに驚きました」

と、由梨さんは感心したように、おもしろそうに話してくれた。木型をお菓子の型押しに使ったりすることはあれど、ボタンとして活用するのは初めてなのだそう。ふたりは、秋にボタンを単独で販売するときのための、彫り方の深さの調節に対して相談を重ねていた。このボタンの、ゆきさんと由梨さんの人生がここで交わらなかったら生まれなかったつやめき。その時間を未来に運ぶ、すべすべとした手触りを、わたしはそっと撫でる。

「馬を彫ってるときは馬のことを、天使を彫っているときは天使のことを考えてます」

やわらかく、同時に芯のある瞳で、由梨さんは言った。あらゆるものが、どこからきたのかはっきりとわからないまま流通することの多い世の中で、胸を飾るボタンがこのアトリエから生まれたことや、注意深い愛情を注がれてつくられたとわかることの貴重さの価値を思う。馬や天使のことを考えながら彫ってるひとがつくっているボタンを胸に飾れる心強さを、どんな言葉であらわしたらいいのだろうか。

再び、台所兼食卓に移動して、帰宅前の最後のお茶の時間。アランセーターのお披露目会で出す予定だという、“うまのはなむけ”のボタンと同じ木型を使ったクッキーの試作品を、ゆきさんがお皿にだした。木型と、ボタンと、クッキー。同じ模様の、ちがうものたちが仲良く並び、かわいい。

「コーヒー飲めますか?」

 飲みたいです、と声が揃い、由梨さんが淹れてくれたコーヒーは、まろやかな絹のような舌触り。とっても飲みやすかった。聞けば、自家焙煎をしているそう。さらには、焙煎機もつくったのだそうだ。

吉備ではコロナが流行したころ、ご近所さんたちのあいだで、焙煎機を手づくりし、自家焙煎するということがちょっとしたブームになったんですーー。つくり方は、YouTubeで検索したらしい。わたしはこの頃になると、由梨さんたちなら、焙煎ぐらいはするだろうと自分に言い聞かせ、心を落ち着かせようとしていた。

というのも、自分の日常とは異なるというだけで、そのひとの日々の営みに驚き続けるのは、なんだか違うのではないかという気持ちがしたからだ。けれど焙煎機をつくったと聞いて、なんだかもう、こみあげるほど細胞がぱちぱちしてしまい、焙煎機ってつくれるんだな、というしみじみとした感慨に、話を聞いただけで生きる力が湧いてくるようだった。

ギンガムチェックのクロスがひかれた食卓のうえで、お別れの時間が迫りくる。いけられたチューリップの花は、一輪はきゅっとしまっていて、もう一輪はたいそうひらいていた。どちらもどうしようもなくきれいだった。チューリップも、ゆきさんと由梨さんがつくったボタンも、木型も、クッキーも、Donegal Yarnsの毛糸も、コーヒーも、オブジェも、しいたけも、キウイも、キウイを切る刃物も、クルフィーも、人間も、その価値の優劣を比べられないし、比べようとも思えない。この場所では、どれもが同じぐらい、力のあるものだと当たり前に信じられた。この感覚は、ふだんの、わたしがいま暮らしている東京の都市部での生活では、もちろん人によるけれど、なかなか感じることが難しいものだとも。

それはおそらく、由梨さんたちの暮らしには、人間が木や動物や木をコントロールするだとか、一方的に消費するという感じがまったくないからなのだと思う。たとえば木片をあらゆるものに変えてしまうように、もの自体に宿る力をみくびらず、見逃さず、呼応しながら、互いのもてるものをめいっぱい引き出しながら生きあう。そういう、人間とそれ以外のものとの持ちつ持たれつの関係を維持するための技術と眼差しと胆力がある。

「田舎に暮らしていると、生きる力はつきますね」と、ほろっと由梨さんは言って、「都市に住んでると、生きている実感が……もちろんあるのだけれど、ないと感じることもある」とゆきさんは言った。わたしもここ数年ずっと、便利な場所に暮らし、誰かのつくる豊かさをわけてもらう生活の魅力と、それによって自分の「つくる」力がたまっていかないことのバランスについて考えている。

由梨さんの暮らしを見ていちばん感じたのは、「こんなふうに生きられたら」という思いだ。わたしは、「豊かさを外注するばかりでなく、自分の内側にもっと豊かさが蓄えられたら、いつか都市ではない場所に暮らせるかもしれない」という思いで、いまはまだ東京で暮らすことで考えを保留しているけれど、これから、どうやって生きていきたいだろうか。

「もっとなんでもつくりたいから、引っ越すんです。あと、もっといろいろなどうぶつと暮らしたくて。賃貸だとどうしても、ほんとうに好きなようには家をつくれないから」

そう言って由梨さんは、帰り道に、実家で剪定したほわほわの猫柳の枝で編んだのだというお手製の籠を見せてくれた。

もともとは絵画を学び、地元で美術の教師になる道を歩んでいたという。けれどそこから、もっと自由につくりたいという思いをもち、木彫に出会い、作家として活動をはじめた。木彫を「ただ彫るだけですよ」と言ってたけれど、由梨さんが彫るという行為には、世界のうつろいや積み重ねを両手を広げて真摯にうけとめるような感じがある。世界を信頼しながらその身を宙に投げだして飛ぶクルフィーのからだの重みを、その都度命ごと抱きとめるように、彫っている。

遠くのものをただ抽象的に考えるだけではなく、いまここにある至近距離の暮らしにこそ、自分の五感と知性を存分に注ぐ。こつこつと手を動かしながら、誰かがつくった書物や音楽のことも愛し、思考しながらほかでもない自分の生活のかたちをつくりあげる。

山あいの一見静かな暮らしのなかで、しんしんと積み重ねられた、自分の心から好くものを諦めず生みだそうするひとがつくる世界が、“うまのはなむけ”が描くまるで架空の王国のようなたしかな世界だと、わたしは受け取った。

「できなさ」を否定せず、共有しあえる世の中にしていくことはとても大事である。「できる」が前提の社会というのは、効率主義の社会に個人の生を利用しかねないし、規範的な「普通」のひとを想定したシステムからはじきだされてきた/いるひとびとを疎外し続けるからだ。ひとりひとりが自分のなかの「できなさ」を知り、互いに支えあったり、助けあったりするゆるやかなかかわりあいを大切にしていきたいと願っている。

それをわかったうえで、わたしは生きていくうえで、「できる」ことを少しずつ増やしたいとも思う。それは、いまの話と矛盾しそうで、実はしない。わたしたちは、社会をスムーズにまわしていくために、結果的に「できない」と思わされていることが多いのではないだろうかと考えるからだ。たとえば、さまざまなものづくりが大量生産のために分業されているなかでは、「つくる過程」が見えづらくなってしまう。知らないから、自分とは遠いものだと感じたり、自分にはできないと感じたり、無関係だと思ってしまったりする。

けれどわたしは由梨さんの木彫とともにある暮らしを見て、与えられる欲望に手をのばすだけではなく、望むもののかたちを自分で考えて、木を彫ってみたいなと思った。いつか小屋を建ててみたいと思った。もちろん由梨さんと同じようにはつくれない。それでいい。他者と比べたり、おびやかしたりするような「できる」ではなく、生活のよりちいさな、やらなくてもいいとされてきたことこそ「できる」ようになりたい。「うまく」できなくてもいい。「つくってみたいな」とか「できるかもしれない」という計画が思い浮かんだときの、その心底わくわくする感覚。

きっと手仕事だけに限らない。どこで暮らす? 誰と暮らす? なにが好き? なにを大切にしながら人生の時間を使っていきたい? 「つくってみたい」と願う対象は、ほかでもない自分が望む生き方を考えることにもつながっていく。自分はこんなものだと思い込まされず、望む幸せを手づくりしていくことを、そのための問いを、いつまでも諦めなくていいと思える世界のほうが、わたしは生きたい世界だなと思う。

つくってもいいし、つくる過程に耳を傾けるのでもいい。ものづくりの生まれる場所に心を寄せることが、つくるひとへの敬意につながったり、つくられたものをもっと大切にできたり、もっと言えば、世界への解像度につながったりする。手で触れるような身近な場所にこそ、生きる心地を取り戻す手がかりがある。それは制作日記の旅を通じて、自らの手でつくるひとたちに出会うなかでわたしが出会った宝物だ。

由梨さんに会いに行った一日は、これからどう生きていく? という問いの種を手渡し、よりよい人生へと向かっていくための旅立ちを祝福してくれるような、そんな長いはなむけだった。

ああそうか、とみるみる実感が湧き、息をひとつ吸い込んだ。セーターを飾るこのボタンそのものが、「うまのはなむけ」なのだ。<旅立つひとの前途を祝して、贈り物をしたり、宴をしたりして送りだす>ーー。撫でたり眺めたりしながら身につけるひとりひとりの、それぞれの毎日を漕ぎだしていく人生の旅路を、このボタンはずっと祈り、見守ってくれる。

 

 

Words:野村由芽

Photo:石田真澄

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