絵だからこそ浮かび上がる世界のかわいさ──デザイン的な思考から生まれる写実的なタッチ│三宅瑠人「ニューオールドカリモク」

故事 | 2025/03/28

この日、招き入れてもらったのは、3階建ての自宅兼アトリエだった。自分たちでところどころ壁を塗ったりもしたのだという室内の木の色が印象的。こっくりと美しくて、チャーミングで、そして落ち着く色合いの。家に帰ってから、あの壁の色はどんな色だっただろう? と気になり、検索窓に「茶色、種類」と打ち込む。ほんのり赤みがかった、弁柄(べんがら)色に似ている気がした。正確にはその色ではないかもしれないが、こんな名前の色が世界にあったのか、とひとりでうれしくなる。

イラストレーターの三宅瑠人さんと話した後は、目の前にあるものをもう一歩深く、知りたいという好奇心が手渡された感覚があった。三宅さんが好きなものは、図鑑。図鑑を愛するその人は、目を見張るほどの精密な絵を描くことのできる技術が際立つけれど、仔細に描き込む表現に限らず、さまざまなタッチを描きわけることを楽しんでいる人でもあった。

玄関に足を踏み入れると、だいぶ年月が経っているだろう、けれど現役であることを思わせる、あまりほかでは見たことのないような愛でたくなる風合いの自転車が出迎えてくれた。思わず足をとめて、これはなにかと聞いてみる。

「兄のお下がりの自転車です。15年前ぐらいにもらったものかな。今でも使っていますよ」

三宅さんは、“お下がり”という言葉をよく使う。見渡せば、部屋のあちこちには、世界中のいろいろな場所からやってきた、古いものたちが飾られている。

「古いものは好きですね。資料としてもいろいろと探したり集めたりしています。これはBRIOっていうメーカーのヴィンテージの木の電車。今も現行品が売ってますよ。小さいときに、これで遊んでました。昔はもっとマットだった気がするなあ」

スマホの画面を見せてもらうと、プラレールの木製版といったところだろうか。車両も木で、レールも木。BRIOはスウェーデンの木製玩具メーカーだそうで、原色の明るい色が塗られているのがキッチュでかわいい。

「今回リメイクすることになったカリモク家具の壁掛け飾り棚も、こういう海外の昔のおもちゃみたいな感じにしたくて。普段よく描いているような自分のタッチではなく、あえて平坦に。書き割りみたいにのっぺりした雰囲気をだしたいなと」

三宅さんと言えば、繊細で精密、写実的といった言葉で表したくなるようなタッチが特徴的だけれど、壁掛け飾り棚に関しては、そのタッチは使わない。イラストやデザインも、担当した3つのアイテムのなかで、唯一これだけはデジタルで起こした。

「先生(ゆきさんのこと。この日、お互いを“先生”と呼び合っていた)には、手描きのほうが好きなんだけどな〜って言われたんですけどね」

大学生の頃から共通の知人を通じて、お互いの存在を知っていたという二人。ここ数年で距離が近づき、YUKI FUJISAWAのアイテムを購入したお客さんに渡す銀色の蝶々のタグや、星座のジュエリーボックス、オンラインストアの挿絵など、ブランドの世界観を絵で表現するときに、三宅さんによく依頼をしている。

「カリモク家具との仕事で改めて思ったのが、三宅くんはアーティスト気質でもあるのにデザイナーでもあるんだなということ。なにを描いても三宅くんの絵になるんだけど、クライアントに合わせて実はタッチをいろいろ変えていて。この壁掛け飾り棚も、仕切りの感じが1階、2階、3階みたいに見えるから、部屋に見立てて階段をつけようって提案してくれて」

この壁掛け飾り棚は、ゆきさんの愛猫の“ねこさん”と“けむり”、そして三宅さんが一緒に暮らしているサザナミインコの“ダイアン”が木でかたどられ、小さな箱庭のような部屋の住人となって展示される予定だという。

「カリモク家具のコラボに合ったイラストのモチーフを決めるときも、どれがいいかすごく悩んでたくさん考えてくれたんです。モチーフを選ぶ理由ひとつとっても、こんなふうに背景や物語を考えながらつくっているのかという過程を見られて面白かった」

描いたものたちのいきいきとした呼吸が聴こえてくるような愛らしさ。ここにひとつの世界が佇んでいるのだということがたっぷりと伝わってくるような、記憶に残る絵。これぞ三宅さんの絵、というものが克明に思い浮かぶゆえに意外でもあったのだけれど、三宅さんは依頼主から発注を受けて絵を描くことがほとんどだそう。そのため、描くことになったモチーフのルーツや付随する物語を調べ、描く理由を自分なりに探すようにしているのだ。「そうしないと、気持ちが落ち着かないというか」──。

カリモク家具のダイニングチェアのモチーフを選ぶときの話をしてくれた。

「これは水仙のモチーフです。もともと水仙が好きで。少しプラクティカルな話になってしまうんですけど、このダイニングチェアの背もたれの部分に縦長のエリアがあったんです。そこを埋めたいなと思ったときに、水仙は茎や葉っぱが長いので、遊べるなと思いました」

ダイニングテーブルの向こう側に、このチェアを置いてみる。すると、ちょうどテーブルの向こう側に、彫られた線が金色に塗りこめられた水仙の花が、横一列にぱぱぱ、と咲いている姿が見えるようにデザインしたのだという。家具を手がけるのは今回がはじめてだそう。「想像してみて、すごい素敵なアイデアだなと思った」と、ゆきさんが言う。

「水仙って確か属名が“ナルキッソス”っていうんです。ギリシャ神話の登場人物で、たぶんナルシストという言葉の由来にもなっています」

自分のこういう話にオチはないんですけど、と三宅さんは笑いながら教えてくれる。水面に映った美少年に恋をしたナルキッソスは、それがほかならぬ自分であることに気づかないまま、その場を離れられず、痩せ細って死んでしまう。あるいは水面に映る自分と口づけしようとして、そのまま落ちて水死したかもしれないという説もある。ナルキッソスが死んだ後、そこには水仙の花が咲いた。

いざ描こうとするものに、一歩ぐいっと踏み込んだ先に広がっている世界に出合うのは、面白いことなのだろう。三宅さんがものごとの由来を楽しそうに話してくれる様子を見れば、こちらも楽しくなってくる。知らないものを知らぬままに、自分のちっぽけな思い込みのままでぼんやり過ごすのではなく、これまで一つひとつ調べる営みがからだの一部になっている。だから三宅さんの絵をじっくり見ることは、この世の無数の物語に触れるための、小さなドアノブに手をかけるみたいな感覚がある。

「サイドテーブルが特にそんな感じだったよね。一枚の絵に物語がすごくある」

ゆきさんがそう話すのは、もともとはカリモク家具が花台として販売していた、サイドテーブルだ。藍色に染められたサイドテーブルの天板には、蝶々、柑橘、メジロ、卵の入った鳥の巣、花、幼虫...... などの姿が、細やかな線で描き込まれている。聞けば、これは自宅の中庭に訪れる生き物たちの関係を観察して描いたもの。

「今は冬だから庭も静かですが、暖かい季節に檸檬や蜜柑を置いておくと、メジロがやってきます。蝶々もこの庭に帰ってくるし、メジロはその幼虫をついばむ。やっぱりもともとは花を置く台だったから、いろんな生き物が庭に遊びに来るところを描けたらいいなと。食物連鎖や、いろいろな時間の流れも含めて。描いた絵をカリモク(家具)さんに渡して、木にレーザーで彫ってもらったのを送ってもらって。細かい表現ができるのがすごいなと思ったので、このサイドテーブルは描きこんだタッチにしています」

ひとめ見た限りでは標本のように、静かな絵。けれどそこには、“ささやか”な、と言っていいのだろうか──それはきっと、人間本位のまなざしだ。ゆうゆうと存在する、生きものたちの大胆な営みの物語がいきいきと描かれ、浮かび上がってくる。大胆な物語を見過ごしていたと思う。わかりやすいかたちで、「食物連鎖のひとめぐり」のように表現しないことにも理由があるのだという。

「自分の気になったポイントを抽出して描いているだけで、蝶やメジロたちのサイクルがこの庭だけで完結しているわけではないから。あんまりわかりやすく絵に描くと、嘘くさくなっちゃう。自分のストーリーだけを押しつけるということをしない、という気持ちがあるかもしれません。あくまでも観察しているものを描く。やっぱり自分にとってはそこなのかなと思います」

図鑑がずっと好き。大学に入る前ぐらいの頃から、いろいろな種類を集めだした。ダイアンと一緒に暮らしていることからもわかるように、特に鳥が好き。1960年代、70年代頃の、北欧や西欧で発行された鳥の図鑑を机に並べて、見せてくれる。鳥の図鑑、とひとことで言っても、いろいろあるのだということがわかる。

「図鑑は、目的によって絵を描きわけているんですよ。これはバードウォッチング用。こっちは、“鳥と人間の幸せな暮らし”がテーマになってるみたいです。あとこれは、鳩の品評会用の図鑑。みんな立派な名前がついているんですよ。羽にグラデーションがきれいに入っているものが評価が高かったり、胸の部分がものすごく大きい鳩もいて」

時代や文化によって絵のタッチも異なるという。毛並みを描き込みすぎて、ムキムキになっているドイツ製の図鑑の鳥や、製版の技術がまだ低かった時代に北欧で刷られた版ズレが醸す、天然の絶妙なかわいさ。ズレまくっているけれど、それがかわいい、と三宅さんとゆきさんが口を揃えて盛り上がる。現代のパソコンでは表せない表情だね。スコープで見てみると、赤色のインクに今とは異なる少し変わったピンク色を使っているっぽい。雌鳥を後ろからじっと見ているこの雄鳥の絵は、鳥好きな人が見るとからだを膨らませていて、なんかちょっといやだなって感じなんですよ……。

「繊細さのなかにどれもちょっとユーモアがあったりウィットに富んだりしていて、それは三宅くんの絵にも通じる魅力だよね」

「まさに大学の卒業制作で、リソグラフでこういう絵を自分で描いて再現するというのをやりましたね。目的ごとに描かれた図鑑は、今の仕事にも活きています。たとえば、伝えたいことに対して、絵のタッチを調整したほうがいいときに、リファレンスにしたり。デザインという視点で見ると、目的に対して絵を描きわけることが必要だと思うし、それが自分も楽しくて。だから周りからは便利だと思われているんじゃないかと思います(笑)」

「三宅くんの絵はすごく緻密で、作品性が高い。自分の作品としてじゃなくクライアントさんからの仕事だとしても、三宅くんの絵が好きだからみんな頼んでいるんだと思う。今回のカリモク家具とのコラボも、三宅くんだけが絵で参加していることもあって、複製可能な作品であるところが面白さでもあるのですが、創作のバランスが不思議だし面白いなって」

三宅さんを今の作風に至らしめたそのバランス感覚は、幼少期に遡る。父がデザイナーだったこともあり、絵よりもデザインのほうが身近にあった子ども時代だった。

「子どもの頃から絵を描いていたわけじゃなくて、最初はデザインに興味がありました。小学生のときに、紙を切って、組み合わせると鳥ができあがるようなものをつくって遊んだり」

デアゴスティー二みたいな感じの? と相槌を打つと、なにかを思いだした三宅さんの顔がぱっと明るくなった。

「“恐竜サウルス”って知ってますか?  デアゴスティー二の。子どもの頃、やってたんです。“今月は大腿骨です”みたいな感じで恐竜のパーツが毎月少しずつ届いて、それを組み合わせていくんですけど。完成すると暗闇で光るから、布団のなかに入れて光らせて、遊んでいると折れちゃって……。表紙は写実的な絵でした。あれ、これ今気づいたけど、かなり直接的な影響かもしれないです。今、鳥好きだし……」

恐竜サウルスを懐かしそうに検索しながら三宅さんは、「全然かっこいいルーツじゃないですね」と笑う。けれど、すごくうれしそうだ。かつて確かにこの土地を歩いていた、恐竜という王者のような生き物を、数億年から何千万年という時差で、自分の手で組み立て再現した少年時代。毎月届く恐竜の表紙に、こんな生き物が生きていたのかと心躍らせ、大人になった今、自らも写実的な絵を描いている。サザナミインコのダイアンも、元を辿れば、先祖は恐竜だ。普段、絵のなかに描くために世界のさまざまなもののルーツを調べている三宅さんが、いつかの自分を観察しに行って、自分自身のルーツのひとつを手にしたようなその時間は、室内がほんのりあたたかくなったように感じたほど。

「ダイアンが走ってくるところに目線の高さを合わせて見てみると、ドドドって走ってくる姿は恐竜みたいですよ」

もちろん、実物の恐竜を自分の目で見たことはないはずだし、恐竜の実写の記録は歴史上存在しない。けれど、わたしたちは恐竜を知っている。おそらく大きな役割を果たしたのは、丹念な研究にもとづいてあらゆる人が描いてきた絵であろう。人間は、それが目の前には存在しない風景や営みだったとしても、限りある情報をできるだけ集め、状況をつぶさに観察し、そこから想像を膨らませ、検証し、絵で描いて存在させることができる。それはいくつもの知恵や技術の層に支えられた、根源的な創造の力だ。

「由佳ちゃん(三宅さんのパートナーであり、グラフィックデザイナーでもある岡崎由佳さん)が前に言っていたのが、伝えたい内容によっては、写真だと情報量が多すぎる場合があるっていう話で。絵の場合も、観察したままリアルに描きすぎてしまうと、見ている人の記憶のなかにあるイメージと離れてしまうこともあるんです。たとえば食べ物は、見たまんまを描くと、おいしそうじゃなくなってしまうことがあって」

観察と記憶、リアルとデフォルメのあいだを行き来できるのは、全体を見渡しながら絵を配置していく俯瞰したデザイン的な思考と、幅広いタッチを描きわけられる高い技術があってこそ。三宅さんの絵は、おそらく多くの人にとって、描かれたものがなにか正確に伝わる精密さがありながらも、やわらかな余白とおかしみがある。SNSや広告などの玉石混交の情報は、見たいという意志がなくても、気づけばものすごい速さで生活に流れ込んでくる。感覚をひらいたままにしていると、気づいたときには疲れていたり、傷ついたりしてしまうから、情報を取捨選択しないと心身を平穏に保つことが難しい。感覚器もおのずと閉じられていく。

そんななかで、三宅さんの絵を前にすると、受身ではなく、自分で感じようとする力が戻ってくる感覚がある。能動的に関心をもつ過程で、心が回復していく。現実の姿からほんの少しずれのある絵だからこそ、違う街で目覚める朝が少し新鮮であるみたいに、見慣れた景色に揺さぶりがかけられる。世界にみずみずしく驚きたくなる。

「もちろん写真の良さもありますが、より一層フィルターを通した表現の、絵もいいねと言ってくれる人もたくさんいるほうが、平和な世の中という感じがしています」

三宅さんがさらっと口にした平和という言葉を、わたしは自分なりに紐解こうとしてみる。たとえば、人が人をどんな理由であろうとも、脅かさないこと。人ばかりでなく、人間以外の生き物や、自然環境、道具のような無機物も、ないがしろにせず、それぞれの生がのびやかに長持ちするように心を配り、行動しようとすること。平和と戦争が対義語になるかはわからない。けれど、胸に焼きついていたこんな言葉を思いだす。「平和は戦争以上に積極的な力でなければならぬ」。アフガニスタンとパキスタンで35年にわたり、病や貧困に苦しむ人々に寄り添い続けた医師の中村哲が、ドキュメンタリー映画『荒野に希望の灯をともす』のなかで話していたことだ。

思えば、三宅さんの絵には人間があまり登場しない。大学受験のために長く勉強したので、「絵がうまくなってしまった」と笑うけれど、「なんでも描ける人ですね」と返すと、人間はあまり得意ではなくて、と答えたのだった。けれど人間がさほど描かれないことで、人間以外のものたちの営みが光る。ついつい人間に目がいってしまう自分の認識の偏りを内省しながら、三宅さんが家具に描いたメジロ、水仙、蝶々、卵、幼虫の密話に耳を傾ける。

普段は目がすべってしまっているものたちの、“ささやかな”生。物語というほど大げさなものでもない、散文的な一瞬一瞬の輝き。目立つものばかりではなく、なにもかもが世界の片隅だという自覚をもって、小さなものたちにも敬意をはらうこと。観察して、調べて、絵を描く時間を生きる人がいること。その絵に描かれたものたちを眺めて、大声をださないものたちの営みのかけらを大切に思い、能動的に愛そうとする人が、当たり前にたくさんいる世界であること。そういう世界は、きっと平和だ。

帰り際、同じくカリモク家具と作品をつくった木彫作家のうまのはなむけさんの家でキウイが獲れるという話になって、三宅さんはすかさずインターネットでキウイを検索しながら、世界のいろいろなキウイの種類のかわいさにつっこみながら見惚れていた。鳩レースで道に迷った鳩をもし拾ったら、送り返すための段ボールというものが昔はあって、そのデザインもかわいかったのだと教えてくれた。世界の具体的なかわいさに、あたり一面がほんのり照らされて、まだ完成していないはずの水仙が黄金色に輝くダイニングチェアに、小さな恐竜とダイアンが並んで座っているまぼろしが見えるのだった。

 

Words:野村由芽

Photo:濱田英明(ポラロイド以外)

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