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すべてわたしが見たもの。糸から伝わる、世界の手触り/朗読会&お披露目会の一日

STORIES | 2024/04/23

すべてわたしが見たもの。

あの日の空の色はどんなだっけ。2024年3月20日の朗読会の一日。会場となった「もりやまてい」の建物に身を置くと、窓枠で切り取られた大きな空につい心を奪われてしまう。普段から空を見ているはずなのに、部屋に窓がたっぷりととられていると、こんなにも空の存在感が胸に広がるのかと驚く。

今年は桜の遅い春ですね。遅いと言っても、それはわたしが暮らす東京と呼ばれる場所に咲いた去年の桜と、今年咲いた桜を勝手に比べただけの話で、調べてみると西日本と東日本では、平年並みか平年より遅いというくらい。北日本では平年より早い開花となるらしかった。「西日本、東日本、北日本とあるけれど、沖縄はどうなのだろう?」と思ったら、そのニュースには沖縄の桜の情報が載っておらず、別のサイトを見ると、沖縄では今年、沖縄気象台が平年より9日早い1月7日に桜の開花宣言をしていたとあった。

「早い」とか「遅い」とか、なにを基準にそう思うのか。自分が今もてる感覚と、立っているこの場所から、短絡的に判断してしまったと気づかされるたび、知覚の限界と視野の狭さにため息をつく。余裕を手放しがちな日々のなかでも、自分の心やからだ、時間や空間の窓をすこしでも解放して、世界をわたしのなかに流れ込ませるにはどうしたらいいのだろうか。

そんなことを考えながら、花が咲き誇ると同時に、磨きたての翡翠色の葉がもう顔を出している2024年の4月頭、近所の住宅街を何周もしながら、「編まれた記憶を読む」の朗読会の日を思い出していた。たった一日のうちに、四季がまるで一周してしまったのではないかと錯覚するほど、空の色がくるくると変わった一日のこと。季節も場所も時間も物語も現実も、ばらばらかと思われていた世界の断片が、編み直された一日のこと。

10:45。もりやまていに到着する。昨年ぶりに訪れた建物は今年も白くて、お天気も上々。抜けるような空と似た色をしたYUKI FUJISAWAの箔が、白い布の真ん中で光をはなち、建物の屋上で気持ちよさそうに揺れていた。

「朗読会で使うらしいんですよ」

やわらかさの染みだした声で教えてくれたのは、建物の主の森山さん。はじめてお会いしたとは思えない、人懐っこさのにじむ雰囲気に心がとけて、まんまとお茶をごちそうになってしまう。前日に買っておいてよかったと、幻の手で胸を撫でおろし、持参したラングドシャをすすめた。物々交換。このラングドシャは、チョコレートのおいしさがすこしずば抜けているんです。ラングドシャはフランス語で猫の舌という意味で、だからというわけではないけれど、アニエス・ヴァルダや、クレール・ドゥニが好きといったフランスの映画監督の話をして楽しい。余白のある空間は、こういうちいさな奇跡めいた偶然が舞い込みやすく、心が照らされる。

建物のなかに入るとゆきさんが編み地を繕っていた。聞けば「いづみちゃんの朗読のブックカバーをつくってるんです」とのこと。Donegal Yarns(ドネガルヤーン)のSOILの色。今年の毛糸には、ゆきさんがバルト三国を中心に旅をして見てきた風景が織り込まれている。

そのSOILの色は、遠くの地に暮らす人々が踏みしめた豊かな土の色でもあるし、子どもの頃にわたしが素足で踏んだ土の色かもしれなかった。開演のぎりぎりまで、見たい世界をすこしでもたちのぼらせようと、旅の記憶を宿したDonegal Yarnsでブックカバーをこしらえるゆきさんの掌に包まれた毛糸を見つめながら、そんな記憶がほどかれる。

どんな思い出も思いだそうとさえすれば、思いだすことを忘れないでさえいられれば、ありし日の柔らかさも甘やかな匂いも、疼く痛みもその回復の過程も、なにもかも昨日のことみたいに胸のなかを満たす。旅の景色を吸い込み、願いを託されたそれは、たんなる毛糸ではなく、受けとった人自身の思い出をたぐりよせる1本の糸そのものに変わっていく。

声のするほうへ。青柳いづみさんが、この日、2度の公演を予定している朗読会の練習をしていた。「9月のコペンハーゲンの運河に浮かぶボートから見上げる薄曇りの空に、時折太陽の光が透けて、そっと帯びた青」色の、SKY BLUEのPocket LOVE Letter Cardigan。このSKY BLUEの色のもとになったゆきさんの旅の景色を写した、一枚の写真をわたしはよく覚えている。個人的な日記にこんなことを書いた。2023年9月20日の日記より。

“昨日、水に浮かべたボートに乗った友人が、ボートに寝そべるようにして空を見上げる写真を見て、なぜか泣いてしまった。ただそこにあるだけで美しいものの一角を見た気がしたのかもしれない。人間も、ただそこにいるだけでいいという時間がもうちょっとあるといい。”

SKY BLUEのころもをふわっと身にまとい、もりやまていを自由に歩きまわるいづみさんの姿は、忙しなさのなかでつい忘れてしまいそうになる、流れる雲や、薄い氷、生物の棲まう湖、まつ毛に反射する太陽光のハレーションをかざして見る大きな空……そういうこの世の美しい青色が、いつもすぐそばにあるのだという事実を、声とからだで運ぶ使者あるいは郵便配達人のようにも見えるのだった。

「これ持っていってください〜!」

いつのまにかブックカバーをつくり終えていたゆきさんから、糸のついた紙コップを手渡されて、我にかえる。糸電話の練習をすることになった。このあとはじまる朗読会は、糸電話の存在に気がついたひとだけがいづみさんと話せるという秘密のしかけつき。

朗読会がおこなわれる建物の3階から、中庭を挟んで向かいの建物の1階まで長い糸をぴんとはって、受話器を耳にあてる。

「聴こえますかー?」

「わ、聴こえます〜!」

「ゆめさーん、ポケットのノートが落ちそうですっ」

普段話しているなにげない言葉が、こちらに届くたび、耳をちかちか光らせた。どんなに長いつきあいだったとしても、糸電話で話したことのあるという友達はそういない。秘密のとびらをひらいてしまったようで、耳が慣れず、ひとことひとことがこそばゆい。

制作日記を通して印象的だったのは、YUKI FUJISAWAとものづくりをしたひとたちが、「今回はじめて取り組んだことがある」と口を揃えて言っていたこと。それを、わかる、と心から思う。夢に見るものをかたちにするために、おおきな冒険ばかりでなく、「糸電話をする」というような、ちいさなはじめての積み重ねこそを、ひとつずつたしかに行動する。それがゆきさんのものづくりの姿勢にあるもので、この日記の集積は、そのそばで過ごした幸福な半年そのものだ。

まだまだ光のさすもりやまていに、顔をほころばせながらアランニットを見にお客さまが何組かやってくる。プルオーバー、カーディガン、ベスト……踊るように試着を重ね、「本当に贅沢で、どれもこれも、悩んでしまいます」と話す方。「自分でも編み物をしていて。お披露目会には初めて来たのですが、YUKI FUJISAWAの服は手編みの力を感じます」と、手にとったニットを撫でる方。訪れた方へのお土産は、うまのはなむけさんの木彫の型で焼いたクッキー。

すこし先を見通す力が備わっているみたいに、なめらかにくるくると働くYUKI FUJISAWAのスタッフさんたちや、お手伝いにきているゆきさんの友人の沙織さんが、お客さまがこの場所で自分のかたちにぴったり合った時間を過ごせるよう、そっと見守っている。

 

“うまのはなむけ”こと神崎由梨さん、夫のだいちゃんニッターの千代子さん、かなえさんも到着する。そろそろ朗読会の時間が近づいてきたのだということ。

「YUKI FUJISAWAのものづくりは、ひとりでやっているのかな? と思うぐらい、かかわるひとたちが世界観を共有していてすごいなあ、って」と、目をぱちぱち大きくひらきながら、由梨さん。

「ゆきさんは、こだわりがあるから」ーーこれまで何度も試作のやりとりを重ねてきたことが想像される、ものをつくるひとのたくましさをたたえた笑顔で、千代子さんとかなえさん。お披露目会の空間を楽しんだあと、ふたりはこの日もこつこつなにかを編みながら、朗読会を待っていた。

今日この場所に来ることを決めたひとたちが、それぞれの生活のなかの大切なひとときを使って、次々にやってくる。慕わしいひとたち、そして慕わしいものたちもここには集まっている。

うまのはなむけさんの陶器のボタン。千代子さんからのお手紙。エストニアのひとたちが編んで届けてくれたミトン。山本万菜さんがゆきさんの旅からインスピレーションをもらって選んで生けた花々。占領と戦禍の時代を生きるひとたちの暮らしを照らしたリトアニアのオーナメント。

それらの世界の断片を迎え入れるように、窓辺にそよぐ今年のアランセーターたち。さっきまで晴れていた天気がかげりをみせながらも、今年一年の、すべての季節がひしめくようにして、YUKI FUJISAWAにかかわったひとやものたちが、これからちいさな祝祭がはじまるのをいまかいまかと待っている。

“窓をあけ放てば色つきの風が入ってくるし、町の音が流れてくるし、いいこともきっとたくさんあるのだろうけれども、しかし鳩が飛び込んでくるかもしれない、しれない、しれない、という恐怖からは家に出入り口をもつ身なら誰一人だって自由になれないのだ”

(川上未映子『水瓶』「治療、家の名はコスモス 」青土社,2012年)

20人ほどが集まる部屋の窓の外から、朗読のはじまりを告げる声が聴こえてきた。すこし鼻にかかった、ひとたび聞けば、生きているあいだじゅう、忘れることのない声。いづみさんの声が空気をふるわせ、耳を澄ませたひとりひとりのからだに届く。たった一言だけで、とびきりの手紙を受け取ったような切実さに胸がいっぱいになったのは、きっとわたしだけではなかった。

“これらの島々だけでも、神意を確かなものとする奇跡は毎年ふんだんに起きている。ライ麦がオート麦に変容し、強制立ち退きを迫る役人たちの上陸を阻むために嵐が巻き起こり、岩場に孤立した雌牛から仔牛が生まれるといったたぐいのことが、ふつうに起こるのだ。不思議とは、雷雨や虹同様……”

(著:ジョン・M・シング 訳:栩木伸明『アラン島【新訳】』みすず書房,2019年)

2020年にマームとジプシーが上演し、YUKI FUJISAWAが衣装を担当した、川上未映子さんの「治療、家の名はコスモス」。19世紀末に、友イェイツに勧められアラン島にわたり、島の人たちとの交流を深めたジョン・M・シングの『アラン島』。宝石研磨士・大城かん奈さんとつくった「Fragments of Quartz」の制作日記で引用したエミリー・ディキンソンの詩集。バルト三国を中心に約1ヶ月の旅をして見てきた、エストニアのお守りのようなミトンや、リトアニアのKGB博物館のこと。書かれた時代も場所も、書いたひともばらばらの言葉をいづみさんが編みつなぐ。

会場内にちりばめられたセーター、ミトン、花、オーナメント……旅の記憶を呼び覚ますものたちに触れながら、もりやまていの建物の外から内へ、そしてまた外へと移動をともない、朗読はおこなわれた。それは、世界にちらばった旅の記憶をアランセーターに注ぎ込み、大切なひとりひとりに手渡し、きっとまた新しい旅へ向かっていくのであろう、YUKI FUJISAWAの四季の歩みそのものだ。

それでいて、ひとりの人間の記憶を、別の誰かに受け渡していくときの良さを信じられるような感覚もあった。いつも使っているちいさなマグカップに星が一杯満たされていた、というような。遅く起きた日曜日に、自分の街に移動天文台が来ていた、みたいな。そういう思いがけないかけがえのなさが。

朗読の終盤に響いた、“すべて、わたしが見たもの”という言葉が耳に残る。“わたし”というのは誰なのだろう? とふと思う。この空間にあるものたちは、ゆきさんがこの一年、いや、それよりもずっと前から出会ってきたものを集めた小宇宙。けれど、ゆきさんの旅をわたしたちは一方的に見ていたかというと、そうではないと感じるのだ。

この日、もりやまていのあの場所には、日々を生き継いできた、すべての“わたし”がいて、それぞれの記憶と重ねあわせながらきっと、朗読を見ていたのだから。言葉を発しているのはいづみさんで、旅路はゆきさんの記憶。けれどこの朗読は、ここに集まったすべてのひととものたちが、ちいさな編み目を分担しながら編み上げるような共同作業で成り立っていた。ふたり同時にセーターを編む、身頃のハギのない、エストニアのセーターをつくるみたいにして。もしかしたらそれぞれの人生がいっときでも交わるとき、それはいつだって、見えないニットを一緒に編んでいるということなのかもしれない。

からだ全体を耳のようにして朗読を聴くひとたち。その姿を見て、ひとりひとりの胸のなかの抽斗にしまわれた記憶の糸や、記憶のレースのようなものがあるから、ゆきさんが旅で見てきたものも、この日の朗読も、ここで終わることはないのだろうと感じられた。それぞれのわたしが、YUKI FUJISAWAが世界で見たものの断片を、おのおのの人生のなかでこれからふとした瞬間に思いだし、編みなおし、きっとまたこの先のなにかや誰かに、それぞれのやり方できっと受け継いで手渡していく。そういう予感で、心がふかふかになった。

 

1回目の朗読を終え、2回目がはじまるまえの時間には、おもたげな雲がたちこめ、春の嵐のような雨が降った。YUKI FUJISAWAのAngel Pearlのモデルをつとめた青葉市子さんの傘は、風が吹く前にひっくり返り、傘で空を飛ぶ天使のよう。穂村弘さんご夫妻、マームとジプシーの方々もいらっしゃって、傘をもたない穂村さんのリュックには、降りたての雨がちいさな湖のようにたまっていた。

2回目の朗読がはじまる頃には大雨はやんで、その代わりにどうどう、ぼうぼう、と、強い風がずっと音をたてていた。窓に守られていることを思い、同時にそれが大きく透明で、屈強すぎない儚さをたたえた窓だからこそ、今夜の夢に見そうなほど空の色が瞼の裏にくっきりやきついて、風にたわむ木々や電線から風の強さを身近に感じた。境界や編み目をきれいに隠してしまわないこの場所では、世界に無関心にならずにいられる気がした。異なる季節も、時代も、場所も、光も影も、ひとところに招き入れられ、そこにある一日だった。

YUKI FUJISAWAのつくるものには、かがやきがある。ニットにのせられた「箔」が象徴的であるように、その仕事からは光を感じる。けれど、喜びや楽しさだけでなく、悲しみや苦しみ、困難や暗闇にあるもの、それを抱えながら生き抜いたひとたちの声を聴き、歪な社会や世界の構造を見ようとしている。自分の胸が締めつけられたり、揺さぶられたりすることを繰り返しながら、知らないことより知ることを選び、変化する自分をおそれないで明日を歩いていく姿勢もそこにはある。

朗読から連想されたこと。たとえば、この世界には「移動」によって助かるひともあれば、移動を余儀なくされるひとたち、移動の自由がないひとたちがいること。人間の手でコントロールできない自然の恵みと試練のすぐそばで暮らすひとたちのこと。膨大な数の美しい詩を書いた、存命中は“発見”されることのなかった女性の詩人。いまこのときも、あたたかな暮らしを自分の手でささやかにつくりだそうとしてきたひとたちが、安心して眠ることも、十分に食べることも難しく、一秒先の未来を奪われる可能性に立たされていること。

なめらかな心安らかさだけでなく、底に響くような悲しみや苦しみや困難を生き、旅立っていったひとたちの声と、その生に出会ったゆきさん自身の心の揺らぎ。それがこの日の朗読に編み込まれていたものだった。世界を知ることは、かけがえのない未知の喜びに心をふるわせることでもあり、たしかにある誰かの痛みが自らのすぐそばまで流れ込んでくることでもあって、そのどちらかだけを都合よく選ぶことはできないのだと思う。けれど、都合の悪いものを見ないふりをして美しいものをつくるより、困難に目を背けずに美しいものを希求することを諦めない道のほうがきっと、自分が生きたい世界だ。

複雑さと奥行きのある世界にわたしたちはすでに生きている。そのことを何度でも思いだしながら、不安や絶望のほうに飲み込まれないように。綻びや穴だらけの世界で、美しさや希望を拾い集めて紡ぐために、自分はなにをつなぎ、運ぶ一端になるのか、そういうことを考える。

そんなふうに、YUKI FUJISAWAのつくるものに触れると、これからの自分がほんとうに大切にしたいと思っていること、こんなふうに生きていきたかったと願っていたものをはっと思いだす。それはなぜだろうか、と考え、自分の祖母の言葉を思いだす。わたしの祖母は手編みでなんでもつくるひとで、「手編みには、精神的なものだけではなくて、その場の空気がふわっと本当に編み込まれる感じがするの」と話してくれたことがあった。

ゆきさんのつくるものには、世界のあちこちの空気が編み込まれている。知りたい、見たいと思うものに対して抱きしめるように飛び込んでゆき、上澄みだけを取り繕うことを決してしないひとのつくった、誠実な重たさをたっぷり吸い込んだニット。だから、このニットも抱きしめかえしてくれる。身に纏ったそのひとのことを。覚えていてくれる。このニットを着て過ごすひとの日々のことを。ひとの命よりも手編みのニットはずっと生き延びて、わたしたちの記憶を未来に運んでいく。それは、心強くあるための手づくりの祈りだ。

ゆきさんと制作日記をつくるなかで教えてもらったことはたくさんあるけれど、特に気に入って、自分でも取り入れるようになった行為がある。それは、大切なひとたちへの手紙を旅先から送ること。郵便よりも飛行機のほうがずっとはやい時代においては、手紙は、からだよりも遅れて届いたりする。わたしの郵便受けにタリンから絵葉書が届いたのは、ゆきさんがバルト三国の旅から帰ってきてから約10日後のことだった。

旅の途中で水に濡れて、インクが滲んでいた。郵便局員のお詫びの言葉が添えられていた。読めない文字があったけれど、その手紙を受け取ったとき、すらすらと文字が読めた場合よりもきっと深く、書かれていることがわかったし、この手紙をもらったことをずっと忘れられないんだろうなと思った。

YUKI FUJISAWAのものづくりは、時をこえて、場所をこえて、切手を貼って、手紙を送るような仕事だと思う。ゆきさんがいまいる場所から、見てきたものや聞いてきたもの、本当に心の揺さぶられたものや大切だと信じたものをごまかさず、これが世界に届いたほうがきっといいはずだと願いを託しながら、手仕事というタイムカプセルに詰め込んで。気概ある愛を込めて。その手紙はたしかに誰かに届くし、長く残る。星がそうであるように、時間がかかっても、光というのは必ず届く。

空が青いこと、青く見える空の下でなにがおこなわれているのかということ。日々のままならなさのなかで、わたしはすぐに、わかりきったつもりになったり、見えづらいもの、聴こえづらいものに耳や目を澄ませ、想像し、考えたりすることを手放してしまう、身勝手で、限界のある生き物だ。けれど、遠く、深く、長い時間軸を振り落とさず、生きた心地に素手で触れるようなものをつくっているひとがいると知っている。YUKI FUJISAWAはそんな、世界の手触りを招き入れる、手紙のような服だ。

制作日記を通して、一通の手紙を運ぶひとりに、わたしもなれただろうか? まだわからないけれど、生きたい世界を一針一針紡ごうとするその日々の、記録を書けてよかった。

 

 

Words:野村由芽

Photo:石田真澄

青柳いづみ Hair & Make : 廣瀬瑠美

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