昭和ガラスに出会う旅
STORIES | 2026/05/17
春のはじまりのような日。駅前で待ち合わせてドライブに出た。運転席でハンドルを握るのは、ゆきさんだ。
「免許自体は、大学生の頃にとってたんです」と、ゆきさん。「YUKI FUJISAWAを始めたばかりの頃は、染め場を借りて自分でニットを染めてたから、車を借りて西立川まで行ってました。後ろのガラスが見えないぐらい、荷台にニットを積んで。駐車がへたくそ過ぎて、『すみません、車停めてもらえませんか?』って、道行く人にお願いすることもありました。それからしばらく乗らなくなったんですけど、2年前にアイルランドに行くときにどうしても必要だったから、必死で練習しました」
そう語るゆきさんは、世田谷の細い路地をスイスイ進んでゆく。環八通りを北上し、練馬から関越自動車道をひた走ると、2時間ほどで秩父にたどり着く。道の駅に立ち寄ってみると、ふきのとうやたらの芽が並んでいて、春を感じる。
見渡す限り、ぐるりと山に囲まれている。「これが秩父の山根か」。ゆきさんがつぶやく。彼女が通っていた小学校の校歌には、「ちちぶの山ね 見はるかす」という歌詞があったのだという。まだ大きな建物がない時代には、世田谷からこの山々が見えたのだろうか。

秩父まで車を走らせたのは、「昭和ガラス」に出会うためだった。
きっかけは、SNSの投稿だ。秩父にある昔ながらのガラス屋さんが廃業することになり、倉庫に眠る「昭和ガラス」の引き取り手を探している――。そんな話がInstagramに投稿されたのは、2月11日のことだった。投稿者とは面識がなかったけれど、ゆきさんはその日のうちに連絡をとり、今日を迎えたのだ。
「昭和ガラス」とは、正確には「型板ガラス」と呼ばれる。透明な板ガラスに対し、型で模様をつけたガラスを型板ガラスと言う。星のきらめきをモチーフにした「銀河」や、着物の絣のような模様の「かすり」など、さまざまな型板ガラスが生産されてきた。

窓ガラスの歴史は、古代ローマにまで遡る。ただし、当時のガラスは今よりずっと分厚く、不透明なものだったという。また、現代のように大きな板ガラスが製造できず、小ぶりなものだった。そこからさまざまな技法が編み出され、大きな板ガラスが製造されるようになってゆく。窓を設けることは――板ガラスを入れた窓をつくることは――家の中にひかりを取り入れる、ということだ。
日本の窓と言えば、平安時代の寝殿造りの建物には、「蔀戸」(しとみど)が設けられていた。戸板をはね上げて開放することで、外気とひかりを採り入れる建具だ。同じく平安時代には障子が誕生し、室町時代の書院造りには、閉じたままでも採光できる「明かり障子」が用いられている。
そこにガラス窓が持ち込まれたのは、江戸時代の終わり頃だという。障子と襖で仕切られた家屋に暮らしてきた人たちにとって、窓ガラスから射し込んでくるひかりは、どれほど眩しく感じられたことだろう。明治には日本でも板ガラスの製造が始まり、明治40(1907)年には旭硝子が設立されている。関東大震災が起こると、災害に強い住宅が求められるようになり、板ガラスの需要も伸びてゆく。

ただ、板ガラスには問題があった。視線を遮ってくれる障子と異なり、部屋の様子が外から丸見えになってしまう。透明な板ガラスを加工したすりガラスや結霜ガラスは当時から存在したけれど、いずれも高価で高嶺の花だった。そこで昭和7(1932)年、日本板硝子が型板ガラスの製造に取り掛かり、ひかりを採り入れながらも視線を遮るガラスが日本でつくられるようになったのだ。
一般家庭の住宅に板ガラスが普及するのは、戦後のこと。生活が洋風化するにつれ、畳にちゃぶ台から、フローリングにダイニングテーブルの世界に変わってゆく。当初は「視線を遮る」という実用性が求められていた型板ガラスも、装飾性が求められるようになってゆく。昭和37(1962)年、旭硝子が「このは」という型板ガラスを発売する。初めて線彫りの技法を導入し、名前の通り木の葉の模様をあしらった型板ガラスは大ヒットを記録。これが型板ガラスのブームを呼び、旭硝子、日本板硝子、セントラル硝子の3社は競うように新しい柄の型板ガラスを開発するようになった。これらの型板ガラスが、現在「昭和ガラス」と呼ばれるものだ。

「私が最初に昭和ガラスを扱ったのは、1年半前ぐらいなんです」と、ゆきさん。きっかけは、2025年の春に、カリモク家具と一緒に「『ニューオールドカリモク』by YUKI FUJISAWA」という展覧会を開催したことだった。長年愛用されてきた「オールドカリモク」と呼ばれるカリモクの古家具に、新たな個性と価値を与えて一点物に仕上げていくなかで、「本のかたちをした木製の宝箱をつくろう」というアイディアが生まれた。そこで天板に用いたのが昭和ガラスだった。
「何年か前から、ちょっとずつ昭和ガラスがブームになってるのは知ってたんです。ただ、銀河の宝箱をつくってみたら、開始10分とかで50個が完売して、『そんなに皆、昭和ガラスが好きだったんだ!』って驚いたんですよね。そんなに求めてくれる人がいるなら、またつくりたいねって話をカリモク家具さんとも話してたんですけど、昭和ガラスはもう製造されてないんです。昔からあるガラス屋さんか、あとは古い家を取り壊すときに出てきたものをリユースするしかなくて、ずっと探してたんです。」

秩父の、とある駅前。そこには小さな商店街があった。テーラーに化粧品店、雑貨屋に花屋、米屋に肉屋と、個人商店が軒を連ねている。その並びに、今回の目的地であるガラス屋さんがあった。
「どうも、お待ちしてました」。出迎えてくれたのは、ガラス屋の3代目・和好さんだ。ちょっと小腹でも空いてるんじゃないですかと、和好さんはおでんと甘酒を振る舞ってくれた。「こんなおもてなし、初めてです」。ゆきさんは顔を綻ばせながらも、ずらりと並んだガラスに視線を注いでいる。

「あのガラス、とんぼみたいで可愛いですね」。ゆきさんがそう語ると、「あれはね、『ちぐさ』って柄です」と、和好さんが教えてくれた。「型板ガラスはね、錫の型に溶かし込んで製品をつくるわけですけど、メーカーごとに型があるんですよ。『銀河』なんかだと、ほとんど同じ柄に見えるんですけど、よく見たら旭硝子と“ニチイタ”(日本板硝子)で、星の大きさが微妙に違うんです。熊谷からこっち側――埼玉の北西部は、基本的には“ニチイタ”のナワバリだったんです」

ここでガラス屋を始めたのは、和好さんの祖父だ。ただ、明治30代生まれの祖父が若い頃にはまだガラスは普及しておらず、奉公に出た先は熊谷のランプ問屋だった。
「私なんか不器用でどうしようもないけど、おじいちゃんの家はもともと宮大工だったらしいんですね。そこから熊谷の問屋に奉公に出たあと、昭和2年に自分で商売始めたらしいんですがね。秩父だけじゃなくて、注文があればどこでも行きました。東京の青梅まで行ったこともありますよ。今じゃ考えられませんけど、昔はガラス屋の組合もあったんですよ。問屋さんが熱海のホテルを貸し切ってくれて、そこに招待されたりしてね。今じゃ夢のような話ですよ」

倉庫の中には、夢のような光景が広がっていた。そこには数えきれないほどの「昭和ガラス」が、所狭しと並んでいた。初めて現物を見るガラスもあると、ゆきさんは言う。
「それで――どれにしましょう?」
「一番人気なのは、『銀河』なんです。『よぞら』も人気です。あと、『もみじ』と、さっきのとんぼみたいな子もお願いします」
「ああ、『ちぐさ』ですね。こっちの『からたち』は要んないですか?」
「欲しいです。それと、向こうにある『古都』もいいなと思ってました。それにしても――これはほんとに管理が大変ですね」

日本の板ガラスは、おおむね“さぶろく”と呼ばれるサイズで製造されてきた。“さぶろく”とは、3尺×6尺。畳と同じサイズだ。注文が入ると、フレームに合わせて“さぶろく”から切り出す。だから、棚に並んでいる型板ガラスは、大小さまざまなサイズに分かれている。また、型板ガラスの厚さは、大半が2ミリか4ミリだ。木製の枠には2ミリ、アルミサッシには4ミリを用いることが多いという。ゆきさんが「昭和ガラスの宝箱」に使ったのは、4ミリのものだ。
「前回つくったのは、これなんです」。ゆきさんは実際に作品を見せながら、イメージを伝える。「今回つくるのは、これよりもうちょっと大きくしようと思ってるんですね。今のところ、21cm×15cmぐらいをイメージしてます」
「ちょっと、これは忙しくなりそうですね。この箱っていうのは、ガラスのサイズに合わせて今からつくるんです?」
「そう、これからつくります。今日切り出してもらったところから、宝箱に合うように、職人さんがまた加工してくれます。『21cm×15cmより1ミリでも大きくカットしてもらえば』って話してました」
「1ミリって、すごい技術ですね。いや、でも、これだけの枚数をカットするとなると、私も大変で――」
「もちろん、もちろん。そのサイズに切り出すんじゃなくて、3個ぶんとか4個ぶんとか、よきサイズに切り出してもらえたらと思ってます!」
「21の15。3掛けだと――63の45。4掛けだと――」
和好さんは数字を繰り返しつぶやきながら、定規でサイズを測り、ガラスに印をつける。すうっとカッターを走らせ、裏側からトントンと叩くと、ぱきっとガラスが切り出される。「わ、もう切れてる!」と、ゆきさんが声を上げる。

「これもね、餃子の皮と一緒です。機械でばーっとやっちゃえば楽なんでしょうけど、ほんとに美味しい餃子って違うじゃないですか。あれとおんなじでね、ガラスも1枚ずつやんなきゃ駄目なんです。1枚ずつ測ってやらないと、誤差が出ちゃう」
和好さんがカットしている間に、ゆきさんは次のガラスを見つけてくる。大きいガラスを使うのはもったいないからと、なるべく切れ端を探し出す。
「『みどり』も可愛いんだけど、宝箱に使うのは難しかったんですよね」と、ゆきさん。「窓ガラスに使うと可愛いんだけど、宝箱はそんなに大きくないから、そのサイズに切り出すと葉っぱの模様があんまり出てこなくて、寂しくなっちゃうんですよね」
「たしかに。それに比べると、『よぞら』のほうが間が持つかもしれませんね」
「『よぞら』もね、ちょっと難しかったです。だから、大きい面で見るのと小さい面で見るのはまた違うなって、勉強になりました」
「おんなじ模様でもね、YouTubeで見るか映画館で見るかぐらい、違いがあるんですよ。それで言うとね、『銀河』なんかでも、星が密集してるとこばっか欲しがる人もいるんですよね。上手な作家さんはね、端っこをうまく使うんです。それがほんとの作家さんでしょうね」

今でこそ宝物のように扱われている「昭和ガラス」も、つい最近まで処分に困る在庫の山だった。
和好さんがガラス屋の廃業を決めたのは、1年前のこと。きっかけは、父を亡くしたことだった。問題は、倉庫に残った大量のガラスたち。重く、割れやすいガラスは、運び出すだけでも一大事だ。ゆきさんも今回、カットせずに持ち帰るつもりだったけれど、愛知県にあるカリモクの工場まで型板ガラスを送るにはチャーター便を手配するほかなく、輸送費が10万以上かかると知り、和好さんにカットをお願いすることになったのだ。

「親父が死んで、どうにかガラスを片付けなきゃなんないって話になったんですけど、引取り手がいなかった。リサイクル業者にも全部断られて、ガラス瓶をつくってるメーカーに問い合わせても、『うちでは使えません』と。隣近所の人なんかは、『昭和ガラスがブームになってるらしいよ』と言うんだけど、どうやって発信すればいいのかもわからなかった。そうしたら、東京のステンドグラス作家の方が、『インスタグラムで紹介してもいいですか?』と言ってくれたんですね。ぜひともお願いしますと頼ることにしたんだけど――その日はもう、生きた心地がしませんでしたね。これで反応がなかったらどうしよう、って。でも、次の日の朝起きたら、『大変なことになってます!』と連絡があって、そこから火がついた感じですね」
インスタグラムの投稿は瞬く間に反響を呼び、和好さんは連日対応に追われるほど忙しくなった。「1年早くこの状況に至っていれば、親父を喜ばせることができたんでしょうね」。和好さんはつぶやくように言った。

黙々とガラスを切り出す和好さんの姿を見つめていると、わたしたち消費者はなんと身勝手な存在かと思い知らされる。
昭和37(1962)年に始まった型板ガラスブームは、昭和50年代に入ると下火となった。ブームが過ぎ去ると、型板ガラスは時代遅れの存在になってしまう。それから半世紀が経過し、「レトロ」と珍重されるようになった。インスタグラムから火がつき、和好さんは対応に追われるようになったが、中にはバーゲンセールのように買い集めにくる客もいるという。 「こっちはね、夕方のカキフライじゃないんです」。そう言って、和好さんは静かに笑った。その言葉に、家業に対する思いが滲んでいるように思えた。

「もともと大事につくってたけど、こうやって切り出してもらってると、もっと大事につくらなきゃって気持ちになりますね」。ガラスを数えながら、ゆきさんが語る。切り出してもらったガラスは、ぜんぶで110枚になった。ガラスを車に積み終える頃には、すっかり夕暮れ時になっていた。

「この商店街も、ずいぶん寂しくなりましたよ」。駅前商店街を眺めながら、和好さんが語る。「今思うと、私が小さい頃が一番景気が良かったんでしょうね。私が4歳のときに、西武線が開通したんです。まだ小さいから、何がなんだかわからなかったけど、この町にとって相当画期的なことだったんでしょうね」
和好さんに見送られて、帰途に着く。西武秩父線が開通したのは、昭和44(1969)年のことだった。和好さんが生まれた頃は、西武秩父線もなければ、ゆきさんが車を走らせている関越自動車道も存在しなかった。交通アクセスが良くなると、地元を離れて都会に出る若者も増えてゆく。この町には公立高校があったけれど、この春で閉校してしまった。
「インフラが整うと、町から人が出て行くようになるって、すごく切ない話ですね」。ハンドルを握りながら、ゆきさんが言う。「カリモク家具と作品をつくるようになって、木のことをもっと知りたいと思って、『紀の川』って小説を読んだんですね。昔は木を運搬するのは大変で、川で筏流しみたいに運んでいく方法があったらしいんですけど、当時は川沿いに交流が生まれて、そこで婚姻関係が結ばれてた、って話が書いてあったんです。川沿いに恋人を探したり、結婚相手を決めたりするのかって思うと、すごく不思議な気持ちになりました。そこに電車が開通して、自分で恋愛の相手を選べるようになった、って。今だったら車で好きな人に会いに行けるけど、秩父から東京に出るのも、昔は大変だったんでしょうね」

ガラス屋を創業した和好さんの祖父は、明治30年代生まれだ。20代のときに関東大震災が起こると、東京がどうなってるか様子を見てくるようにと言われ、中山道を歩いて東京まで出かけたそうだ。東京まで、どれぐらいかかったのだろう。秩父から熊谷経由で池袋に向かうルートは、およそ100キロ。Googleマップだと徒歩で23時間5分と出る。
和好さんのおじいさんは、誰に命じられて東京まで歩いたのだろう。
その時代に――あるいは、「昭和ガラス」が最盛期を迎えた時代に――家はどんな空間だったのだろう。
「最近、こどもを預けにいくときに、車通りの少ない道を練り歩くことが増えたんです。そうすると、いろんなおうちの前を通るんですけど、表札に男性の名前しか書かれていない家が結構あるんですよね。そういうおうちを見ると、『女性はどこにいるんだろう?』と思ってしまうんですよね」

共働き世帯が多数派になったのは、1990年代――つまり平成に入ってからだ。昭和の時代には専業主婦世帯が一般的で、「家内」なんて言葉もごく普通に使われていた。今、過去形で書いてしまったけれど、そんな考えは今でも根強く残っているのだろう。男性には書斎があるのに、女性はキッチンを自室扱いされる、なんて話も耳にする。
男性が働きに出て、女性は家庭を守る。昭和ガラスがブームになったのはそんな時代だった。家の中で長い時間を過ごすのは専業主婦だった。昭和ガラスを見つめる時間が長かったのも女性だったのだろう。では、その時代の女性たちは、自分好みのガラスの模様を選べたのだろうか?

昭和という時代は、「レトロ」な存在として懐かしがられている。その向こう側には、無数の人生がある。昭和の家に、どれだけ自由があったのだろう。その時代には、長男が家業を継ぐことが当たり前だった。和好さんもまた、そうして家業を継いだひとりだ。お父さんは職人気質な人だったんですかと尋ねた際に、「いやあ、ただ依怙地だっただけですよ」と笑った和好さんの言葉を思い出す。
わたしたちには、自分の人生を自分で決める自由がある。昭和ガラスがあしらわれた宝箱は、あなただけの空間で、誰も手を伸ばすことのできない聖域だ。そんな宝箱が、いろんなわたしの元に送られる未来を想像しながら、すれ違う車のヘッドライトを眺めていた。
Words 橋本倫史
Photo 工藤司
2026.03.06
・参考文献
「脚光をあびてきた型板ガラス」『ダイヤモンド』(1967年8月21日号)
板ガラス協会「日本の型板ガラス 過去・現在・未来」『セラミックス』(1969年5月)
田島慶三「日本板ガラス技術の歴史 日本化学会化学遺産認定」『サイエンスネット』(第49号)
吉田 智子・吉田 晋吾・石坂晴海『想い出の昭和型板ガラス 消えゆくレトロガラスをめぐる24の物語』(小学館)