アトリエまでの道
STORIES | 2026/02/04

この道を、何度歩いたことだろう。
JR千駄ヶ谷駅の改札口を出ると、東京体育館が見える。ここに通い始めた頃は、体育館はまだ改修中だったし、その向こうにある国立競技場はまだ建設中だった。八幡前のガードをくぐると、右手には新宿御苑が広がり、左手にはマンションや一軒家が建ち並んでいる。ベランダで洗濯物が揺れている。角を曲がると、椿の花が咲いている庭があり、その先に小学校がある。こんな都会の真ん中に暮らす小学生もいるのかと、いつも不思議な心地になる。この小学校を通り過ぎたあたりに、ゆきさんのアトリエがある。

「今は授業中だから静かですけど、昼休みになると賑やかですよ」。お茶を淹れながら、ゆきさんが笑う。「手前が音楽室なのか、木琴の音がよく聞こえてきます。ここを借りてもう7年になるから、校歌も覚えました」
このアトリエに通って、YUKI FUJISAWAの「アランニット制作日記」を書いたのも7年前だから、あの頃ゆきさんは、ここにアトリエを構えたばかりだったのか。当時小学1年生だったこどもは、卒業して中学生になり、今はまた新しいこどもたちが向かいの小学校に通っているのだろう。

2026年、YUKI FUJISAWAは15周年を迎える。自身の名前を掲げて制作を始めたのは、ふとした出会いがきっかけだった。
「15年前――当時わたしは大学3年生で、金森香さんが主催していた『ドリフのファッション研究室』でインターンしてたんですけど、そこでいろんな出会いがあったんですね。そこで知り合った写真家の方が、『こんど原宿のラフォーレ・ミュージアムでブースをキュレーションすることになったんだけど、ゆきちゃん、なにか作品並べてみる?』と声をかけてくれて。えっ、わたしの作品を並べるなんて、そんなことが、と思いながら、学校で染めた布で手縫いのバッグをつくったのが、最初のきっかけでした」

ゆきさんは当時、多摩美術大学の生産デザイン科に学び、テキスタイルデザインを専攻していた。デザイン科となると、まわりは就職を目指す子が多く、「わたしもいつか就職して、どこかでインハウスのデザイナーになるのかな?」と、ゆきさんは漠然と考えていたという。ただ、ラフォーレのブースに並べた手縫いのバッグが、バイヤーの目に留まり、「このバッグはちょっとださいけど、布自体は可愛いから、うちのお店に向けてオリジナルの商品を作ってほしい」と声をかけられたことで、慌ててブランドを立ち上げることになった。それが2011年秋のことだった。

「最初はもう、イベントに一回出店して終わりだと思ってたんですよ。これがわたしの晴れ舞台だ、って。だから、『ここから活動を続けていくんだ』という気持ちは、全然なかったんです。そもそも、当時のわたしには、未来が想像できなかった。いちおう就職活動もやってたんですけど、面接官に『うちに入社した場合、10年後にあなたは何をしてるんですか』と聞かれて、泣いちゃったんです。卒業したあとのことも想像できないのに、10年後のことなんて、わかるわけないじゃん、って」
大学生だった頃のゆきさんは、授業が終わるとすぐ、街に繰り出していたという。キャンパスは坂を登った山の上にあったから、「山を降りて都会に行く」イメージだったと、ゆきさんは振り返る。学校でもいろんなことを学んだけれど、街でいろんな人と出会って、そのおかげで今があるのだ、と。

15周年を迎えるにあたり、頭の中は実現したいアイディアで溢れ返っていた。ぼくがゆきさんのアトリエを訪れたのは2月4日で、新年を迎えて1ヶ月が過ぎていたけれど、まだほとんど身動きが取れておらず、「アトリエに来るのも、今年に入ってまだ3回目なんです」とゆきさんは聞かせてくれた。
きっかけは、こどもを産んだことだった。
初めて会った日に、ゆきさんが語っていたこと、今でもはっきり覚えている。「会った」と言っても、ぼくはただ運転手として国道58号線を北上しているだけで、後部座席に座るゆきさんと、女優の青柳いづみさんが交わす会話に、黙って耳を傾けていた。
小さい頃から、つまり後部座席のシートベルトが義務化される前から、必ずシートベルトを締めていたこと。親知らずは早く抜かないと大変なことになるから、25歳までに抜くと決めていたこと。そんな話の流れで、この年齢までにこどもを産みたいと、ゆきさんは口にした。自分の身体に対して、とてもはっきり意識を向けている人なのだなと、印象に残ったのだった。

「普段はもう、流れゆくままみたいな感じで、全然計画性がないんです」と、ゆきさん。「作品をつくるときも、そのとき良いと思ったものを『へい、お待ち!』みたいに鮮度が高いまま差し出したい気持ちがあるんですけど、締め切りがないと動けないタイプでもあるんですよね。それに、身体的なことに関しては、親知らずの話もそうですけど、『この年齢までにやっておかないと、大変なのでは』みたいな気持ちがあって。出産にも、年齢ってものはどうしてもついてきてしまう。こどもを産みたいって気持ちはあったから、どの年齢で産めるのかってことは、ずっと考えていたんです」

妊娠がわかったのは、2024年の年の瀬だった。その翌年、2025年のYUKI FUJISAWAは、予定が目白押しだった。 3月には、TASAKI銀座本店でテキスタイルの作品を展示し、 同じく3月にはカリモク家具との展覧会の開催が決まっていた。4月には初の書籍『わたしを編む つくる力を、手のうちに YUKI FUJISAWA制作日記』の刊行と、本屋でのPOP UPやトークショーの開催と怒涛の日々が待ち構えていた。
「最初のうちは、『あれもやりたい! これもやりたい!』と思ってたんですけど、4月に本を出版したあたりで、ちょっと力尽きてしまったんですね。つわりが最後まであったから、5月と6月は宙に浮いてるような時間でした。身も心も追いつかない、こんなに毎日大変な思いをするんだから、こどもを産むのは大業だって言われるわけだわ、って」

アトリエで向かい合って話していると、ゆきさんが慎重に言葉を選びながら語っているのが伝わってくる。自分の経験を主観的に語るのではなく、どこか俯瞰した立ち位置で語っているのが印象に残った。
これまでゆきさんは、こどもを産んだことを表立って伝えてこなかった。この15年、あまりプライヴェートなことを発信してこなかったこともあるけれど、こどもを産む、ということについて、うまくことばが結べなかったのだ。

「わたしのまわりにも、産む、産まないで悩んでいる人もいるし、わたし自身も不妊治療をしてみたなかで、『やっぱり、こどもを産むって大変なことだ』と思ったんですよね。それに、わたしのまわりには男性と男性のカップルや、女性と女性のカップルもいるし、こどもを持つ、持たないってことに対して、うまくことばにできないなっていうのがあったんです。あと、わたしが何か発信したら、こども自身も将来読むことができるわけですよね。10年後、20年後の世界がどうなっているかもわからないなかで、どんなことばを残すことが正しいのか、わたしにはやっぱり判断がつかなくて。そうやって悩んでいるうちに、どんどん時間が経ってしまったんです」

出産の翌々月には、京都・koenでのYUKI FUJISAWA個展『本とニット』が控えていた。当時は産後ハイだったことに加えて、もともと頑張りすぎてしまう性格だということもあって、出産後もバリバリ制作を続けていた。出産をなにかの言い訳にしたくない、という思いもそこにあったのだろう。どうにか10月の個展は乗り切ったものの、その反動で体調を崩してしまう。オンラインで注文があったぶんの発送も、問い合わせのメールにもすぐに返事が返せない日々が続き、「このままではお客様に心配をかけてしまうから、出産したことをきちんと発表しよう」と決めたのだった。

「こどもを産んだら、自分は『もう、ものづくりしなくてもいいや』って思ってしまうんじゃないかって、すごい怖かったんです」と、ゆきさん。「わたしはずっと、ものづくりに自分の人生を全部預けてきたし、『どうにかいいものが出てきますように』って、祈るような気持ちで続けてきたんですよね。その分、発表する前には毎回プレッシャーを感じてたんです。『わたしがつくったものなんて、誰も見たいと思わないんじゃないか?』と怖くて、逃げ出したくなる。弱い自分が、子どもを言い訳に全部手放してしまうんじゃないかと思ったんですよね。もちろん、出産を機にまったく違う人生を歩んでいくのも素晴らしいことだと思うんです。でも、わたしはわたし以外になれない。『あなたはあなたで別の個だから、わたしはわたしの好きなことを今まで通りやらせてもらうよ』って、あの子が生まれてくる前から考えていた気がします」

思えば、こどもを生むずっと前から、ゆきさんは同じことを口にしていた。
YUKI FUJISAWAの代表作のひとつに、「記憶の中のセーター」がある。ヴィンテージのアランセーターに、染めを施し、箔を押したものが「記憶の中のセーター」だ。誰かが大切に着てきたセーターに、新たな加工を施し、別の誰かに届ける。その誰かと誰かは、暮らしている地域も違えば、縁もゆかりもない間柄だ。そんな誰かから誰かへと受け継がれていくことに、ゆきさんは希望を見出してきた。


「出来上がったセーターを届けるときに、『いつかお子さんが受け継いでくれたらいいですね』みたいなことは、絶対に言わないようにしてたんです。受け継がれていくことって、親から子へってことだけじゃないと思うから。たとえば会社を起業することだって、プロダクトをつくることだって、写真を撮ることだって、言葉を綴ることだって、全部受け継がれていくことだと思うんですよね。誰かから、別の誰かに届く。それで言うと、出産後にあらためて『音楽っていいな』と思いました。遠くまで、言語を超えて届くから」
そんな話をしていると、アトリエの前にトラックが停まった。二人がかりで運ばれてきたのは、古くて大きな棚だ。昭和の時代によく見かけた、どこか懐かしい感じのするガラスがはめ込まれている。この棚は、ゆきさんが京都で出会って購入したものだという。

アトリエの奥には、もうひとつ大きな木の棚がある。その棚は、昨秋京都で個展を開催した際に、偶然通りかかった糸とボタンのお店で長年使われていたものだ。お店はすでに閉業していたが、在庫として残っていたボタンを買わせてもらった際に目が留まったのが、その棚だった。


「もう廃業されているお店にお邪魔して、ボタンを買わせてもらっただけでもありがたいのに、『この棚も欲しい』なんて、ちょっとがめつすぎるかも、とは思ったんです。でも、見れば見るほど木棚の風合いに見惚れて、言わずに帰ったら絶対後悔すると思って、『この棚も買いたいです』とお願いしてみたんですね。そしたら『タダでいいですよ』と言ってくださって。あとからお店の方が、『この棚は自分のおじいちゃんとおばあちゃんがお店を始めるときに、このスペースにぴったり収まるように誂えたものなんです』と教えてくれました。この店は廃業してしまったけど、祖父母の代から大事に使ってきたものを、受け継いでくれることが嬉しい、って。そう言われたときに、大事に使われてきた棚に値段をつけるのは失礼かもしれないなと思ったんですよね。もちろん、お金でやりとりするわかりやすさもあるとは思うんですけど、最近はお金以外のやりとりに興味があって。どうすれば、この棚をもらったことへのお返しができるかってことを、去年からずっと考えてます」

音楽は空気を振動させて誰かの耳に届く。かたちがないものだからこそ、遠くの誰かにまで、言葉の壁を越えて届いていく。ずっと昔の音楽が、時代を越えて届くことだってある。それとは対照的に、棚のように堅牢なものは、時代を超えて使い続けられてゆく。では、衣服は――と考えることが増えたと、ゆきさんは言う。
「木棚に比べると、布って洗濯を重ねると少しずつぼろぼろになって、最後には捨てられてしまうものですよね。100年前の木製品は日常で使えるけど、100年前の服を日常で使うのはちょっと怖い。それに比べると、陶器とかガラスって、強くていいなと思ってたんです。何百年経っても、土の中から出土されるから。ただ、ちょっと前に料理人の知り合いと話していたときに、『料理はすぐなくなるのが良いところ』と言われて、はっとしたんです。そこに切なさもあるし、一瞬で終わっちゃうから、どんどん次に行ける。その言葉を聞いて、弱いからこその良さもあるなと思い直したんですよね」

わたしたちは毎日食事が必要だ。食べればすぐに消えてしまうから、食材を作り続ける人がいて、料理をつくる人がいる。衣服もまた、どれだけ大切に着たとしても、着られなくなる日がやってくる。だからこそ、世界には衣服をつくる人が必要だ。2020年から、ニッターさんたちに依頼し、いちから編み上げたニットを制作するようになったことで、“つくり続けること”を意識するようになった。だから、妊娠中は新作セーターのお披露目会を開催することはできなかったけれど、ニッターさんたちに仕事を渡せるようにと、小物だけは制作したのだった。

「15周年に向けて、やりたいことはたくさんメモしてあるんです」と、ゆきさんは手帖を広げる。そこには膨大なアイディアが書き記されている。そのひとつは、この15年でつくってきた作品を見返して、今のまなざしで制作し直してみる――というものだ。
「高校生だった頃に、河合塾の絵の予備校に通ってたんですけど、課題の絵を描いたら、先生がフィードバックをくれるんですね。そのフィードバックを受けて、絵を描き直して持っていくと、もういちど先生が見てくれて、意見をくれてたんですよね。あの感じを、ちょっと思い出したんです。15年経った今、これまでつくってきたものを改めて振り返ったら、どんなアイディアが出てくるだろう、って」

気づけば日が傾き始めていて、小学校から賑やかな声が響いてくる。アトリエはガラス張りで、カーテンを開けていると、外の様子がよく見える。扉を開けると、外から風が吹き込んでくる。アトリエの前の通りかかった小学生が、不思議そうにこちらを覗いている。アトリエという空間自体、その子には不思議に見えるのだろう。
15年前――まだ大学生だった頃のゆきさんは、“山”を下って街に出て、そこでの出会いが、YUKI FUJISAWAというブランドを立ち上げるきっかけを生んだ。あれから15年経った今も、ゆきさんは自宅ではなく、アトリエを借りて制作に取り組んでいる。ほとんど這い出すように、アトリエに足を運ぼうとしている。
部屋から一歩外に出れば、思いもしなかった出会いが生まれる。その出会いに、言葉に導かれるように、ゆきさんは今日まで生きてきた。15周年を迎えた今、何と出会って、どんな作品を生み出すのか。この1年、見届けたいとおもう。




Words 橋本倫史
Photo 工藤司
2026.02.04