「暮らしの営みや、文化をつないでいくこと」バルト三国編:旅の話(2)
STORIES | 2023/10/21
ここから、バルト三国の旅がはじまる。まずはオープンエアミュージアム(野外博物館)としてはヨーロッパ最大級の広さだと言われているリトアニアの民族博物館へ。たっぷりと1日かけて、リトアニアの人たちの伝統的な暮らしを眺めた後、ゆきさんにとってのバルト三国の見方を一変させてしまう、オーナメントに出会った。
【2023.9.19-9.23 リトアニア】
「もともと古いものを集めるのが趣味で、気づいたらお店をやっていたというおじさんのお店に行きました。細長いピンク色のオーナメントは、クリスマスツリーに巻き付けて飾るためのもの。そしてこれは、リトアニアが旧ソ連に支配されていた時代のものだと言っていました」
そのお店は、リトアニア・第二の首都であるカウナスにある。カウナスといえば、リトアニアが第二次世界大戦中に旧ソビエト連邦とナチス・ドイツから侵攻を受けていた頃、日本領事館領事代理として赴任していた杉原千畝がユダヤ人にビザを発給し、彼らの亡命を手助けした場所として名高い。
「バルト三国を訪れるまで、恥ずかしいのですがどんな歴史があったのか多くを知らなくて。だから、かつてソ連に支配されていた話や、大国に小国がどんな目に遭わされてきたかという話も、オーナメントを買った時点ではピンときていなかったんです。
けれど、もっと勉強したいなと思って。作家の村田沙耶香さんからお話を聞いていた、首都・ビリニュスにあるKGB博物館にも足を運びました」
KGBというのは旧ソ連の秘密警察のこと。第二次世界対戦中にKGBが本拠地として使い、人々を収容し、拷問していた場所が、現在は博物館として公開されているのだという。「まだ言葉になっていないのですが……」と慎重に言葉を選びながら、ゆきさんは続ける。
「収容されている人々全員で1日5分しかトイレが使えなかったり、叫んでも聞こえない防音室があったり、水攻めする部屋があったり……。銃痕もたくさんありました。抵抗する気を失せさせるような場所。殺された人たちは、人間ではないようなやりかたで、捨てられるように葬られたそうです。この場所を訪れたことで、おじさんのお店で購入した、占領下の時代につくられたオーナメントがまったく違って見えました。どうしようもなく苦しいときにも、この小さなオーナメントが、誰かの家を照らしていたのかもしれない……そう思いたいです」
「おじさんの店にはなかったのですが、バルト三国には、たとえばガスマスクだとか、軍物のアイテムを売っているお店が結構あったんです。そういう光景を見て、バルト三国……と言ってももちろんすべて異なる国なのですが、それぞれの土地が経験した歴史をほんの少しだけど自分の目で見て。ロシアによるウクライナへの侵攻も続いているので、バルト三国とそれらの国の関係なども勉強しながら旅を続けようと思うきっかけになりました」
“光を観る”と書く「観光」という文字を、きれいだとわたしは思う。けれど同時に、観光という響きに含まれかねない、自分にとって都合のよいところや、気楽な面だけを得ようとする態度に注意深くありたいと思う。
おじさんのお店に置かれていたオーナメントは、誰がどんな思いでつくったものなのだろう。ゆきさんが「多くは語らなかったけど、後から考えると占領下の時代には若い世代だったと思う」という店主は、なにを思い出したり、あるいは思い出さなかったりしながら、オーナメントの説明をしてくれたのだろう。
「これまでの旅では、各国の民族博物館には足を運んでいたのですが、政治的なことや、戦争に関わるような場所には行っていませんでした。やっぱりつらいから、目を背けていた部分もありました。けれど、常にどこかの場所で争いが起き続けていることに胸を痛めますし、不安定な世の中で、自分や身の回りの人たちがこういう状況に立たされる可能性だってある。それを想像する時間がいままではもてていなかったことにも気づきました。
バルト三国のことをなにも知らないから、いろいろな視点から見てみようという思いで導かれた場所ですが、リトアニアでここに行ったことは、すごくよかったです」
【2023.9.25-9.29 エストニア】
いよいよ次は、ゆきさんがバルト三国で一番好きになったというエストニアへ。首都のTallinでは、ふたりのキーパーソンに出会った。
「エストニアには手工芸協会がいくつかあって、事前にメールして、“ニットに携わる人に会わせていただけないでしょうか?”と連絡をしたんです。そうしたらすごく気さくに返事をくれて。エストニア民族芸術・手工芸品組合の会長のLiivi Soovaさん、大学で教えながらニットの仕事もしているRiina Tombergさんと、1、2時間お茶をしながらお話ししました」
「Liiviさん、Riinaさんとは、手工芸にまつわるお互いの文化の悩みを話し合ったりもして。手織りのクロスが20ユーロだったのですが、それだとお小遣い稼ぎにはなっても生計は立てられず、職人になりたい若い人たちが増えないという話だとか。エストニアも日本も同じだねって」
Liiviさんからは、エストニアの伝統的な衣装にまつわる本をプレゼントしてもらったそう。本をめくったゆきさんは、ものすごく大きな靴下の写真に目をうばわれた。その秘密は、翌日以降に訪れた場所で解き明かされることに。
「博物館には、伝統的な手仕事の作品資料がたくさん収蔵されていました。大きな靴下の正体は、エストニアの本土から海を隔てたキフヌという島に行くときに履かれていたもの。氷が張った海の上を歩くときに靴下を4枚重ねて履くために、一番外側がすごく大きな靴下になっている」
テキスタイルアーティストのAnu Raudさんが集めたエストニアの手工芸品の数々を、手に触れながら間近で見ることができる「ヘイムタリ美術館」と、文化・学術の都市として栄えた古都Tartuにある、旧ソ連軍の軍用滑走路の跡地に建てられた「エストニア国立博物館」。エストニアの手仕事は、次々にゆきさんを惹きつけていく。
「ダンスをしたときや、農作業で座ったときにちらっと見えるよう、上の部分にだけカラフルな模様が入っている靴下は、“奥ゆかしい靴下”と呼ばれていて、3つとして同じ模様はないそう。赤色には、すべての悪いものが入ってこないようにという願いが込められていて、手首やスカートの裾、襟などにポイント的に使われることで、出入り口を守る役目を果たしていたそうです。
あと、焼きたての熱々のパンをアイロンのように押さえつけて、スカートのプリーツを折るというTõstamaaの民族衣装も目にして。限られた旅の時間のなかで、ラトビアやリトアニアではこうした生活に根ざした資料には出会えなかったので、興奮しました。対面でふたり同時に一枚のセーターを編むことで、身頃のハギを必要としないセーターも見せてもらい、驚きました。バルト三国は冬の季節が長いので、防寒具として昔から編みの技術が発展しているそうです。」
ここまでの見てきた旅の風景の断片が、エストニアで星座のように像を結び、旅がぐんと動き出す。
「なにかを得なくてもいいと思っていたものの、東京に戻る期日が近づいてきて、少し焦りはじめていたんです。そんなときにバルト三国で侵略や占領の歴史に少しだけでも触れて、たくさんの人が亡くなってしまったり、文化が途切れてしまったり、本来はつながっていくはずのものが、つながっていけなかったことを思い、苦しくなりました。
それがエストニアのニット文化に出会ったことで、こんなに素敵な文化を誰かがたしかにつくっていたことや、それを誰かが残そうとしたことに希望を感じて。わたしは手工芸の文化に対して、なにができるのだろうと思いました。そんなとき、“関係人口”という言葉を教えてもらったんです」
定住者ではないけれど、旅をしたり、仕事をしたり、継続的に関わりをもつという「関係人口」の考え方を、エストニアに移住した編集者の友人・橋本安奈さんが教えてくれたそう。ゆきさんはあることを思いつき、実行する。
「いま、Riinaさんに連絡して、エストニアのニッターさんたちにニットを編んでもらえないか相談してるんです。まだお返事はきていませんが、たとえばエストニアの伝統的な柄のミトンを、すべて違う柄で編んでもらって、次回のお披露目会でご紹介できないかなと。旅での出会いを、次につなげたいんです。いままでのYUKI FUJISAWAの制作とはまた違うなにかを、今回の旅で出会った人たちと一緒につくってみたくなりました」
「本当の願いや祈りが込められた服」アイルランド・帰国編:旅の話(3)につづく
Movie(旅):YUKI FUJISAWA